節分

節分である。季の節目であるから、いよいよ寅年気分は無くなって、兎年に本格チェンジである。節分と言えば豆まきで、鬼も必ず付いてくる。鬼は心の闇だから、その闇がこちらを見つけないように「鬼の目の玉ぶっつぶせ」と、暗闇に向かって豆を撒いて、さっと玄関を閉じるのだよと、おばあさまにじっと見つめられて語られて以来、心の鬼が怖くなって、心に鬼を湧かせないようにするにはどうすればと悩んだら、こんな歳になってしまった。

地方によっていろんな謂れがあるのでしょうけれど、今の時代、ネットを検索すると節分の由来とか、地域の節分とかいろんな情報が目の前に並びだす。某、なまはげ県を訪れてお伺いしたお話は実に強烈でしたな。冬になると難破船が漂着する。外国の舟だったりして、そこから鬼が降りてきて、家を襲い食糧などを奪っていく。それがなまはげのきっかけなのだと。民を泣かせて、脅かしてくる。その鬼と豆まきとの結びつきは聞けなかったが、ひょっとしたら豆を提供したらおとなしく帰ってくれたのかもしれない。

日露戦争での日本の勝利は、豆を水に浸してもやしにして食したのに対し、ロシアの人々は豆を煮て食した。その結果、ビタミン類を日本人は獲得出来、それが無かった人達は、健康を害し敗北したというお話を伺ったことがあるので、豆を食する文化を御持ちなのは間違いなかろう。冬の備蓄食料として豆は古くから食べられていたが、日本の湿って適度に気温が高い環境は、もやしの生育にはもってこいだ。そんな生活習慣が無意識に健康を維持しているのかもしれない。

そんなことを思っていると、豆を炒って歳の数だけ食べるなんてことをすると、健康に悪いのではないかと思ってしまう。そもそも食糧である豆をばらまいてしまうとは何事か。SDGsに反する事この上ない。しかしながら風習というのは恐ろしく、無意識に豆まき用の豆を買ってしまっている自分に苦笑いである。鬼も福も共に笑い合えるのが宜しい。鬼と仲良くなれるくらいの気持ちで良いのではないか。そんなことを想いながら、豆を撒くとしよう。心の鬼を退治するために。

データオリエンテッド

街の偉い人のお話からはSDGsだ、カーボンニュートラルだと、まぁまぁ、どんどこ出てくる。これは世界が向かう方向だから仕方がないし、地球の破壊の限りを尽くしておきながら、今更脱石油も無いものなのだが、省エネは絶対に正しいと思っているので、その技術開発の結果、SDGsの何らかの項目が達成できれば良いくらいと思っている。何かをやった結果、生命の故郷の地球が守られればそれで良かろう。

地球の歴史を紐解けば、全休凍結だの平均気温40度越えなど、人類は死滅する環境があったわけで、今の技術ならきっと生き延びてしまうのでしょうけれど、地球のリセット機能を働かせて、どうなるのかを見たい気もするのだ。もしも人間が産業革命を発生させずに、地味に生きていたら、地球温暖化のトリガは掛からなかったのかどうなのか。石油などは地上に溢れて、揮発性炭化水素を継続で気に発生させていたし、繁茂した植物は腐敗してメタンガスを発生させていただろう。

海洋においては大型生物が大繁殖した小型生物を食べまくって排泄して、それからもメタン等温暖化ガスを排出したであろう。深海であれば低温故に、その問題は無いのかもしれないが。何がどうなっているのか解らないが、今の工業生産状態よりは温暖化ガスの排出は少なかったであろうということでしょ?数値で見せられるのは、1960年くらいからじわじわと平均気温が上がっていますねというグラフだけで、過去1万年くらいの、明かにホモサピエンスが活動している期間における大気中CO2濃度と平均気温との関係図などは見せてもらったことはない。

今あるデータを切り出して、こうなるから何とかしろというやり方は気に入らない。繰り返しになるが、省エネは当然目指すべきだし、資源の無駄遣いは絶対にやめるべき。森林破壊も論外で、適切な量を保たねばならぬ。しかし、地球と言う故郷にどれだけの人口がひしめいて良いのか、誰も知らない。無尽蔵に増えて、経済活動を続けることでQOLのベースラインを上げ続けたとして、それはホモサピエンスが本当に体験したことの無い事態なのか、宇宙規模のイベントで、地軸の傾きの偏差とか、いろんな要因で起こされている現状なのか、リアルな検証結果を見せて頂きたいもんだ。どうも窮屈である。

教育行政

名古屋市長が小中学校生にキャリア教育をということを打ち上げられた。これはとても称賛されるべき事と思う。勿論、閉鎖の極みの教育行政に市長の想いが届くとは思えないが、将来の夢を持って学びに取り組むのか、受験という競争の勝利者というゴールを目指すのかで、その後の、国の有り様は変わってくる。サラリーマンになって終身雇用なんて概念が無くなり、生きている限り働いて自活することが前提の世の中になって、旧態依然の教育で良いわけがない。リーダーとして英断と讃えたい。

地域と共創でということだが、その中身は全く分からず、恐らく、こうありたいという掛け声だけで、中身は無いのであろう。それはそれで良い。方向性を示すのがリーダーの役目で、それを汲み取り形にするのはサブリーダーの務めだからだ。リーダーが方向性を明確に示さないから、全てが瓦解してくのだ。こんなことを言うと、総スカンだと考えるのだろうが、既に世界から総スカン状態の日本なのだから思い切れば良いのだ。

考えて良いと言う事だ。正解なんというものは概念から外さねばならぬ。ただ、心地良くなっていることを共同体の中で共有できる事が重要だ。キャリア教育をと打ち出したとして、それが実るのは遥か先。それこそ次の市長の代になってから漸く効果が表れるだろう。それで良いのだ。教育の効果など50年以上経過しないと出てこないに決まっているのだ。それを理解せず、次から次へと行政から提案が降ってくる。毒まんじゅうとなって振ってくる。食っても死なない身体を作っておくか、食って即死するか。

エンジニアリングをモノとモノとの組み合わせで利益を上げる仕組みと概念づけてしまう日本だが、場における「こと」の価値を最大化させる智慧を産むことこそエンジニアリングである。体験もエンジニアリングによって産みだされる。その体験がどのような波及効果をもたらすのか。それがビジネスモデルであり、粗利の源泉である。図面を起こせるものづくりは既に過去の異物だ。夢をイメージ化しデザイン出来る思考力。是非、育てて頂きたい。あの世から見守ることとする。

プラスチック

同質のものを沢山作って、商材1個当たりのエネルギーを下げて、安く消費者に届けて頂いている企業が沢山。世界中でコスト競争と言うか、踏ん張りと言うか、それは凄いと思う。我が国においても漸くエネルギーコスト等が商品価格に転嫁されるようになり、その値上がりに魂消ることもあるが、まぁ、それは当然かなとも思う。自分の稼ぎではこの辺りの食材がお似合いだということだなと割り切って、甘んじるわけだ。

それでも企業殿の努力は凄い。何が凄いかと言えば、食材のパッケージ。空気は通さないけど、エチレンは通すとかね、水も通さずお菓子も長持ち。長持ちの陰にはフィルム業界、言ってみれば化学業界なのだけど、この開発には極めて長い年月と開発コストがかかっている。その素材に対して「全て植物由来にしないといけない」みたいな圧力が世界中から巻き起こっている。

植物由来樹脂と言うか、植物から抽出しないといけないのだけれど、現状の機能の発現を植物由来に求めるとなると、まぁ、ひょっとすると出来てしまうのかもしれないけれど、どれだけの開発期間と植物が必要になるのだろう。日本の様に何処でも雑草が生え、竹が繁茂するなんて国はそうそうざらに無い。植物が生える場所と言うと、アマゾンのジャングルが丸禿になったりするのかなとも想ったりする。あくまでも今ある能力を保って、食材も長持ちさせるという条件を考えただけだが。

石油という素材が生み出した、社会的価値の大きさを改めて感じる。様々に石油の由来について語られているわけだが、限られた資源であることは間違いなく、また、プラスチックと言う安定した素材が海洋汚染等を引き起こしているから使うの辞めましょうと言うことなのだけど、植物由来のパッケージが、生命を脅かさないとは限らない。地球を汚すことは悪だというなら、その根源は人間にある。その活動の根幹にある経済偏重を野放しにして、特定分野を攻撃の的にする。全ての見直しの時期だろう。人間が生き延びるためには。そう思う。

改革へ

名古屋にやってきてずっと聞かされてきた改良と改善。損得みたいなもので、以前より良くしよう、悪かったところを善くしようということですな。それはとても重要なことで、基本的活動であることは間違いない。しかし、フォアキャスティングの視点で過去から今、そして未来を考える時、経験をベースに次に何をしようと言う活動だから、先細りは必然でしょうね。決まったパイを食べあうのだから、食べる速さを増したからとて、社会が獲得する幸は変わらない。いろんなところにそれはある。

リーダー同士の会話の中で、横に座っていて強烈に記憶に刻まれたことがあって「研究・開発なんて簡単に言うな!研究は出来るだろう、でも開発は出来ないのだ」。もう一つ、「安全・安心なんて簡単に言うな!安全は当然、安心は永遠の課題だ」と。共に既に亡くなられた方が今もご存命の当時のリーダーにぶつけたお言葉なのだけれど、そこに居合わせて本当に幸せな経験だったと感謝している。カバン持ちの役得である。

教育の仕組みにしてもそうで、経験を重ねた者の言い分の平均値をとると、確実に改良・改善の思考の方向に向かっていく。絶対値では無くね。小生の親などは事あるごとにそらんじていた教育勅語を語って聞かせたものだが、それはある意味絶対的基準を満たそうとするものであって、バックキャスティング的発想だったと今は感じる。到達しえない理想から今ある教育を語る。これは所謂、改革の姿勢であって、昨日の自分ではなく、明日あるべき姿を描くものだ。

個人的理想と社会的組織のあるべき姿とは異なってくるのだが、間違いないのは、今、30歳の方は20年後に50歳となっている。きっと「この老人が何を言うか!」と思っているだろうが、必死に頑張ると20年はかなりの経験を積む、いや、積んでしまう。しかもそれは30歳の方が10歳から30歳までの多感な時期における社会の20年間とは異なる質のものある。もしも改革に挑戦できる社会を望むのであればやんちゃな20年で得た感性を、老人の機能を活用するべく大きな声を挙げねばならぬ。老人はそれを護りつつ、安心を担保せねばならぬ。改良改善から改革へ。生き残るにはそれしかない。そう思う。

格差2倍

プーチン氏がTVに出てきて、正しい戦争であると胸を張る姿に我が目を疑うわけだが、我が国の最高裁判所が「選挙の一票の重みの格差2倍は合憲だよ」と言いきっちゃったことにもっと我が目を疑うのだ。民主主義の真っ向否定で、憲法違反も甚だしい。そんな国だもの。議員さんが勝手気ままに振る舞うわけだね。そもそも論、選挙区の区分けを議員が決めるという考え方そのものがおかしかろう。そんなものこそAIにやらせれば宜しい。機械的にやるべきところに感情を介入させてはならない。

投票と言うものをどう考えているのか。県知事選などは県の民がこぞって投票に行くわけだけど、国政の悪影響を受けて、投票に行かない人が増えてしまうのではないか。最高裁の裁判員の15名中14名が2倍は合憲と胸を反らすわけだ。そんな国だ。どんな投票も意味が無いのではと思ってしまう。これを言うと「山奥に住んでいるのは山を守っているのだ。過疎地の一票を無視するのか?」と直ちに反論が出てくるわけだが、それは目先の転換でしかない。格差を無くそうと言っているのに、無視するのかという感情論を吹っかけて正論ぶる。恐ろしい話だ。

代議員って国民全員が一緒の場に集まって議論出来ないから、民の代わりに代弁してくれる人が成っている筈なのだが、100万人の代用と50万人の代表が同じ重みの発言をして良いのか?皆、公平であるべきでは無いのか?10増10減とかやって、議員の数を保とうとするのもおかしな話だ。人口が減ったらその分減らすのが宜しい。そんな当たり前の議論すら成されない。子供が減るから大学を無くせと言うなら、自分達の席も減らすのが当然である。

我が目を疑う新聞の見出しに仰天したわけだが、そんな中においても学問の府の民として、天下国家を想うわけだ。時代は進むのにずっと同じ方がそこに居る。世界を見ればリーダーの年齢が下がっている国が多い。永くやっているとろくなことはない。自らを振り返り、他山の石としなければならぬとは思う。それにしても格差2倍が合憲とは。恐れ入った。

イノベーション考

小生が技術の価値化という単語を使い始めたのは2004年頃なのだが、その当時は「大学の研究者は企業と隔絶しているからこそ自由な研究が出来るのだ」と、まぁ、企業も何も関係なく、研究テーマは自由に選定できるんだけどね。勿論、軍事目的とか、出来る大学とそうでないところがあるわけで、それは所属する組織のポリシーに依存する。その技術の価値化というのは、科学が技術になって、その技術が産業界で咀嚼され、更には世界に羽ばたいていった時に得られる人々の笑顔という状態を言っていた。これは今でも正しいと思っている。

巡り巡ってと言うことなんだけどね。カンコツが化けていって量産を支えて粗利を獲得するというのは今でも日本の主流の在り方かもしれない。それは日本企業の大好きな改良・改善でのコストカットから産みだされるもので、総売り上げは変わらずに、粗利だけ増えるということなんだけど、それは粗利は増えるがやりがいはどんどんと落ちていくわけだ。勿論、改良・改善は大切で、ロボットや専用機で出来るものを人力でというのは間違った方向であるのは間違いない。

それで出来上がったビジネスモデルがあったとして、この先どうするのとなると、今、自社が有する工作機械を活かすことが出来るビジネスを教えてくれなんてことになる。酷い話、無料で大学を使えとかね、そんなコンサルもどきが現れて、先輩風を暴風に変えてやってくる。そんな時代では無いし、大いにお断りなのだが、それで飯を食えるのだから恐ろしい世の中だ。そうではなくて、新規のビジネスを思うならば、今をどうのこうのではなく、本気で「こんな素晴らしい場で活躍したい」と思う事。そしてそこで必要なことは何かと考えることだ。

大いなる落とし穴があって、技術が人を喜ばせていると考えてしまう事。違う、それは全く違う。技術は単なるツールであって、幸せは今と意識が変化する時に感じられるものだ。当然のことながら、不幸のベクトルは採用されない。幸せはそれを活用する人に帰属するのであって、技術による革新などと思ってはいけない。その思考がまかり通る限り、モノづくり屋に明日は来ない。世界最高の技術のみがそこに参加できるのであって、工作機械を持っているからではない。笑みを支える技術を産んだ時、それが技術として認定されるのである。イノベーションとは意識の革新である。技術やモノでは無い。理解するべきだ。

名古屋考

名古屋って本当に恵まれた、豊かな土地だなと心底思う。先週来、月曜日から寒気が流れ込み吹雪になるぞと、マスコミは恐怖をあおるわけだが、名古屋においてはどこ吹く風。昨年のクリスマス寒気でスリップ事故等、道路網は寸断されたが、その他、一般民間人の生活が大きく乱されることも無く、直ぐに解ける雪にホッとするところである。今回の史上最強とも言ってよい寒気が来るぞ、名古屋も気を付けろという事では御座いましたが、そこは流石に名古屋で御座いますな。

勿論、過去には大地震、台風に見舞われ、大いなる被害があったわけですが、日本中で震災に苦しみ、寒波が入れば大雪で大騒動。ところがですよ、名古屋の地って、天災が逃げていくように思うのですよ。だからこその三英傑なのかなと。現状においても、産業は勿論の事、農業も大河川のお陰で自律できる。気候も温暖。そして地勢的に寒い山奥から南国の渥美半島まで様々ある。海もほぼ内海で、本当に素晴らしい環境。

それ故の問題として、若者がずっと名古屋エリアから出ていかないということがありますな。それがアンチ他人風土を強くしてしまうのかもしれない。もっと外に出て行けば良いのにと思うのだけれど、その内向き安定感満載の若者に影響されて、教員も安定感が増してしまう。もっともっと激しくヤンチャで居て頂きたいのですが、どうも元気と言うか、活気と言うか。自分の同年代の頃はどうだったのだと言われてしまいそうですが、聞かない方が良いよと。

冬が寒いよ、夏は暑いよとは言うのですが、そんなもの、より寒いところも蒸し暑い処も沢山あるわけで、気候にしても産業の発展具合にしても、それはそれは見事なものですよ。ただ、見事過ぎて、なんとかしなければという気風に欠けていると感じるわけです。もっともっと必死になって、じたばたしても良いのになと感じるところが沢山。今、自動車産業が無くなったらどうすると、そうなったらこの地域、どうなってしまうのか、教育もどうするのか。そんな具合に思っていないと、国から捨てられてしまうのではと焦ってしまう。恵まれ過ぎは破滅の始まり。そう思っているくらいが丁度良かろう。

1000円

水を含む食糧、エネルギー、医療、衣食住を国内生産100%にお互いにせずに、持ちつ持たれつで経済を回していきましょうと冷戦中段の際に世界が納得し合ったわけだ。しかし持てる大国はその持てるものをより持てるように、持たない国は持てる国があるからそこから購入すれば良いやと、学びを忘れ、観光業で食っていこうとなり、昨今の様々な危機を迎えて沈没をし始めた。最早、日本を一流国と思う輩は居るまい。そんな脳天気者には春は来ない。

数年前にプーチン大統領が「自国を守る防衛力を持たない国は国では無いから、外交の相手にしない」と宣言したわけだが、防衛に飽き足らず攻めに転じてしまった蛮族に堕ちたわけだが、自国を自国で守るというのは、ある意味、正しいと考えている。その守り方において、核抑止力を持つことを良しとしているのではない。この国と国民を破壊すると自分達にも多大な損失が生まれると理解させることが、今の時代の守り方だとは思っている。

食糧も医療も同じことで、今朝、TVで見たのだが、子牛の価格が1000円ですよと、そんなことがまかり通っている。理由が「子牛を成牛に育てるまでの飼料が、海外からの輸入だからとてもではないが、それ以上出せないという理屈だ。最終顧客に近い処の利益を守るために、遠い生産者が泣く仕組みは、工業製品と何ら変わらない。素材・原料に近ければ近い程、利益を上げられない仕組みをほったらかして、給料だけ上げろという絵空事を繰り返す。何の為に上げるのだと。

国として成立していない状況を何とかしなければと、政治家諸氏から聞いたことが無い。田中角栄さんの日本列島改造論以来、天下国家に大望を抱いた人を見たことが無い。大悪はあったかもしれないが、理想もあった。何故、それが理想なのかを語ることが政治家だったり、リーダーだったりするのだろうが、なかなかそれが聴こえない。強い企業のリーダー殿にはそれが見える。まだ、そこに光明があると感じている。まだ間に合うのかもしれない。子牛が1000円で売買される世の中で無くなって欲しい。純粋にそう思う。

ニュースを見て

昭和30年代から生きているのだが、若かりし頃、放火・強盗・殺人などのニュースが頻繁にあった。強烈なニュースなので、ガキの脳裏にしっかりと焼き付いたということで、それだけしか覚えていないから、なんだか年がら年中、そんな事件があったのではないかと妙な思い出し方をしているだけだとは思う。浅間山荘で鉄球が停まった場面なども、白黒TVのフレームごと覚えている。ハイジャック事件なんてのもあったしね。

それから在所にカラーTVなんかがやってきて、トイレが水栓になったりしてきた頃には、そんな事件の記憶が減っているというかなくなっているのだ。商店街も活気があって、店頭に玉子が山積みされたり、魚が氷とともに並んでいたり。パンを切り売りしてくれる店なんてのも現れたりね。きっと、景気と言うものが良くなったのだろう。パートタイマーなんて単語を覚えたのはそんな頃だったと思う。そんな時代でも、豆腐屋さんにはボールを持って、一丁毎に買って帰ってきていたけどね。

景気と凶悪犯罪発生数というのは相関があるのかなと思うのは、昨年くらいから、「かっとなって親を殺した」とかいう、そんなことで人を殺してしまうのかという事件が頻発してきているし、東京の方では連続強盗殺人とかね、昭和30年代の貧しい時代に逆戻りしたのかとフラッシュバックである。食材を求めにマーケットに行けば、当然の如くで、温室栽培の野菜などは高騰している。きゅうりのぬか漬けなど暢気に作れない。

これがあったら便利だなというようなものは、多くの家庭にいきわたり、新規の購入などしなくてよくなってきている。モノを作っても在庫が増えるだけだ。一方で、高度な技術革新に挑戦しなければ、国家はどんどんと貧乏になる。当然、それは国民の貧乏となって現れる。それが心の貧しさに繋がり、すさんだ社会となって表出する。今、その扉が開き始めたのかなと感じる。学ぶこと、そして学んで得た知恵を発揮することに実を伴う感謝をすること。そのフェーズに入らなければ、ますます、悲惨なニュースが増えるのではと考える、今日この頃であります。