アンチ無償

東京オリンピックの開催を求める時のプレゼンに「お・も・て・な・し」というのがあった。小生は「ろ・く・で・な・し」と聴こえてしまったが。万人のオーダーのボランティアで支えますという、そんな継続不能なことを提案して良いのかと思ったことを覚えている。人が無料・無償で働いて、それを是とする考え方は、小生は嫌いである。労働には対価が必要だ。当然である。その根底から考え方を変えねばならぬ。

昨年、某企業のお偉い方が相談に乗ってくれとやってこられた。コンサル的なお話で、それと抱き合わせでとある契約をということで来て頂いたのだが、結局、アイデアのタダ取りをやられて、立ち消えになった。最初からそのおつもりだったのでしょうね。騙されたこっちが悪いのでしょうけれど、もう二度と、お会いすることはないだろうなと思っている。それは即ち、アイデア出しまでは無料であるという日頃の思い込みが成せる業だ。

大企業が利益を無限に出し続けることができるのは、上意下達で中小殿からアイデアを出させ、設計させ、いちゃもん付けて直させて、素材の発注やらなにやらのバックヤードワークをゼロ円と見積り、それをのませるからだ。中小企業は給与を上げようと思っても、揚げられない現状がそこにある。お役人が政治家殿の無茶振りに24時間不眠不休でサービス残業していることも同様である。その悪しき因習が無くならない限り、日本は一流国と呼ばれないでしょうね。

おもてなしを商材としている旅館なども現れてはいるが、それは極々限られたところ。まだまだ一般的では無い。それらはお金持ちのインバウンダーを相手の商売だから出来る技で、貧乏な日本人が活用できるものでは無い。国は中小企業に補助金などを出しているよと威張るのだろうが、本来、それは税金であって、使途として正しいのか?正しいB2Bが成立していれば要らないのではないか。政治家は真面目に国の将来を考えよ。腹立たしい。

人口許容量は?

日本で言うところの江戸時代までは、地球温暖化の議論なんて無かったわけだ。情報的に観測データが得られなかったというのはほったらかすとして、自然と共生していた状況が人類にはあったわけだ。経済活動と言う、持てる者が富む構図が生まれて、造り続けるために捨て続けるという謎のスパイラルを描き続け、それが無限に続くという幻想で、気が付いたらなんだか地球が温かくなってきたぞと言うことだ。

単純では無くて、太陽活動の周期も考えないといけないし、地軸の揺動で、太陽に対する角度の問題もある。諏訪湖の結氷の情報が六百年近くも蓄積されていて、それを拝見するに、太陽活動の周期と一致するねということが解るわけだけど、そのリズムとはかなり異なってきていることから、まぁ、人間の繁栄が地球の繁栄を凌駕してしまって、地球の破壊が進んだのだなということが解る。

随分前からインドの人口が中国の人口を越えますよということが言われていて、それは凄い事だと感じていた。感じていただけで、それが一体、何をもたらすのかを考えるわけだ。人口減少に向かうと言っても、900万人以上の出生数に驚くし、高齢者が2億人を越えるという事にも驚かされる。新たな消費が減ってくるわけだし、高齢者向けの商材が売れるようになるのかなと思ったり。ただ、人の為に何かを生産するということは、エントロピーの変化をもたらすわけで、当然の事ながら、当面は温暖化が進むのだなと感じるのだ。

食べて動けば放熱が生じるわけで、牛のゲップが悪者扱いされているけれど、人間そのものが地球環境を悪化させる方向にあることを理解しないといけない。農業だって肥料を高効率に植物成長に繋げると言う事も大切だろう。やれることってとても沢山ある。それをやらずにEVシフトとかね。物を創るということはエネルギーを使うわけで、経済活動優先と言っている限りは決して温暖化速度を低減化させないのだ。地球は一体何人の人を乗せることができるのか。まだまだ増えていく人口。その供給源の一つの速度が低下してきたのだなとは思うのだが、地球から見ると大きな変化では無かろう。

時代は変わったよ

いよいよ新車販売台数が世界三位になりましたな。人口を考えれば当たり前の話だし、日本と言う極めて狭隘な国において、いつまでも新車販売台数が世界第二位と言うのもかなり変なわけだ。営業用の車などを売り付けて、良質な中古として海外に送り出すというアンチSDGs戦略も終焉を迎えたということだ。車両に使われる素材のリサイクル率は極めて高いから、資源の無駄遣いでは無いと威張っているのを某所で聴かせて頂いたが、作るのにも、リサイクルにも巨大なエネルギーが投入される。そのコストを購買層に肩代わりさせるビジネスモデルだ。

自動車製造のお話になると、日本産業の中枢だから、それを無くすことを考えてはならないという不思議な議論になるわけだ。もう世界は、大きな買い物と言うよりも、質の高いものを長期間にわたって活用することで、個々が喜べる価値観を育て、スモールな世界が幸せの場となるようなビジネスを展開することで、場同士で多様な価値を共有できる方向に動き出しているのに、未だにこの国は旧態依然、大量生産・消費・廃棄がお好きである。

もう一度、半導体産業をなどと言い始めているわけだが、それは良い傾向ではある。こんなものがあったら良いというものが、全て海外製品ではマーケットに行ってもちっとも面白くない。それはこの国において最適化されていないからである。こうありたい、こうあるべきを実現していないからである。汎用品は所詮、代用品である。それは購入した瞬間からゴミである。Z世代諸氏からすれば、汎用品の自動車などは持ちたくない筆頭格であろう。EVよりキックボードを選ぶのではないか?しかし大人はそれらの活用の場に規制を掛け楽しくない世界を創り出すことに入れ揚げる。

ベンチャーを立ち上げる若者には、YouTubeという自己満足発展形だけでは無く、モノづくりにもチャレンジして頂きたい。そして大人は、その発想を面白いと思わねばならぬ。今まではでかい面して若者に「こうあるべきだ」なんて言ってきたのだから、その逆の立場に立っていることを認識せねばならぬ。特に日本の社会は、若者の生き血によって生活が保障される国だ。その若者に神戸をたれねばならぬ。その現状の表れが、自動車だけでは無く、様々なものに現れるだろう。次はどの産業だろうか。そんなことを思っている。

教師の成り手

問題の読み解きに時間が掛かるから、読解力が必要な試験であったと、予備校などが対策に時間が掛かり対応が容易では無いという。我が国の教育現場の思想がすべて表れているなと感じる。他国の論文を拝読し、その内容の劇的な高度化に驚きつつも、新奇な発想で新機軸を学理として導入していく。その挑戦のベースには「読解力」と「発想力」があるのが基本となっている。最も重視したいのは「夢起草力」である。

教員不足が叫ばれて久しい。余りにもブラックであり、子供ならずも親までもが学校に攻めてくる現状において、誰が好んで教師になろうと手を挙げるものか。採点しきれない子供達の提出物を家に持ち帰り、家庭不和を巻き起こし、精神を病み人生を棒に振る職場に誰が手を挙げるか。教育の成果は30年、50年と長期に量らねば可視化されない。それなのに、文科大臣殿は、自分の代の成果とばかりに次から次へと現場無視の政策を打ってくる。余りにも短史眼だ。

短史眼で育った者は、当然の事ながら短史眼になるわけで、経済にしてもものづくりにしても、今、その瞬間に何らかの「見える成果」が与えられないと行動を否定してくる。朝令暮改もここまでいけば立派なものだと思う。マスコミも、先生の質などと単純な事を言ってくれるが、教員免許状は「単位の積分」で獲得できるわけで、そこには適性や素養などという人間力は加味されないのだ。そんな状況から「就職先」として教職が置かれるわけだから、国の存続を可能とする教育の質など、確保されようがあるまい。

新車販売台数が世界三位になりましたよということだって、車の保有そのものに魅力が無くなっただけでは無く、車そのものの有り様に魅力を感じないからということもある。壊れないは当たり前なのに、次々とリコールが沸き起こる高額商品を、Z世代が欲しいと思うはずは無かろう。価値を感じ取りライフワークの一つとして感じ取れるような商材こそ求められる時代。それは工場の中においても同様。リーダーに夢起草力が無く、挑戦する姿勢も無い状況において、そこに人を育てて投入しようと思うはずが無かろう。教育の現場だけに責任を覆いかぶせ自らの悪行に目をつぶる。この国は滅びるねと「三四郎」という作品を通して漱石が語ったが、その通りだ。

入試の度に思う

共通に試験を行って上から順に入りたいと思う大学に入る権利を得ていく。入試とはそんなところであろうか。将来、どんなことの開花するかも解らない、個人に属する機能が何か全く解らない内に、それまでに学んだ、ほぼ、統一的な学習の習得度によって振り分けられていく。多数決が好きな国民性故に、とんがった才能をつぶすのが好きで、類似の方向性に向かおうとしていると、年齢上位者が下位者を引きずり落としたりする。

それ故に点数と言う便利なものを採用しているのかなと思ったりもする。芸能などはその範疇では無いのであろうが、まぁ、見えない世界に対して推測などはばかばかしいのでやめておく。入試のテクニックとは恐ろしいものだが、思考の論理性と言うか、あいまいさを許さないという点においては、鍛えたものが上位に行くのだろうなと思う。それは努力によって身につくからだ。と考えてみると、他人より努力をした成果を評価しているのかなと思うと、入試と言うものも捨てたものではないなと思っても良いのかもしれない。

しかし、遺伝的ものというか、図抜けた何かというものもあるのだと思っている。政治的だったり学問的だったり、奇才というか天才と言うか、そんな「才」はあるのだと感じている。そんな者が入試でこけて、世にうずもれてしまっている事例が、我が国では多いのではと思ったりもする。国民の数にしては、天才的事例が他国に比べて少なすぎるような気がする。勿論、みんなで渡れば怖くないというか、皆で渡れと強要してくる社会の仕組みがそうさせるのかもしれないけれど。

過去は過去。これからやってくる未来に対して、過去を土台にし過ぎるのでは無いかなと思ったりもするが、一つの才能だけ図抜けされて世の中に放り出したら、それはそれでとんでもないことをしでかしそうな気がしないでもない。一芸入試みたいなものがいつの間にか無くなっていっているのは、それを採用した大学なりがなんらか思うところがあったからであろう。多くの大学が固有の入試を設けているのは良いことだと思う。それがその大学が約束している社会へのアウトカムズを生み出すにふさわしい者の獲得と育てる責任を果たせるのであれば。入試の度に振り返る。悔い無きように頑張って頂きたいと思う。死ぬほど学んで欲しい。それだけだ。

新興とは

ベンチャーやスタートアップという単語を見ない一日は無いという状況になってきた。それはそうで、中堅・中小企業殿には技術があってと言うお話も良く聞く。それも事実なんだけど川下企業からの図面を指示通りに造り上げる技術はすさまじい。動く部品をミクロンオーダーで組み合わせられるように仕上げることは、単に大型工作機械を購入したから出来るという代物ではない。が、図面そのものを発想しているわけではない。何故ならばその必要が無いからだ。

発想せずにお金を儲け続けるとどうなるかと言うと、木の根っこに引っ掛かって兎を手に入れた猟師となる。思考しなくて良いわけだからね。そうやって、大企業の傘下に無意識に組み込まれ、自社技術をオープンにせず、ホームページには何処何処社製の機械が何台ありますという展示会をやらかすわけだ。どんな価値を生み出すのかを売らずに、形状を作り込みますということを売りに出す。買いやすい体制であるのも間違いない。同じ機械を他社も持っているから、もうちょっと安くしろと言いやすい環境を受け手が作っているわけだ。

となると、新規アイデアが出てこないわけだし、そもそも50歳過ぎの中老の皆さんが、30歳よりお若い方が欲する何かを発想できるはずはない。アイデアが無いのだから製造するのは古くからある自動車の部品と言うことになる。半導体産業に参入したいので、お前の名前を貸せとかね、言って頂けるけど、それは無理です。名前を貸すのが無理では無くて、自動車業界の方々に半導体業界が欲する0.1nmの世界のものは造れないと言っているだけだ。

そんな今ある究極の世界への挑戦では無く、次世代の皆さんが楽しめる産業構造・社会構築にはベンチャーやスタートアップの発想が必要なのだ。そこには単にお金だけでは無く、それを社会実装させるまでの技術の伴走が必ず必要だ。そこを増やして、今ある技術の承継、そして発展というところが必要だから若者の起業が必要なのですよということだ。ゾンビは駆逐される時代である。それだけのことだ。

いじめ

大人のいじめは陰湿だ。徒党を組んで他者廃絶に励んでくる。そのおぞましさたるや。伸び盛りは伸ばせば良いのだ。ちょっとの狼藉など可愛いものだ。組織を破壊するようなことをしなければ、やって聴かせて褒めて見せというところだ。そもそも、大人はそんなに優秀か?伸び盛りを叩きのめすほどに優秀なのか?逃げ場を失った獣程、怖いものはない。組織の中で逃げ場となってくれるところが残っていれば、その者は全力を持って逃げ場とならねばならぬ。

いじめというものは強いものに向けて放つのが宜しい。負けると分かっていて成長を目指すというところだ。どうせダメだろうけれど、それに挑んでいくのが宜しい。挑まれる側が徒党を組むとは何事か。ただ、向かっていくという時に、凶器を持ってはいけないけどね。それは決してよろしくはない。宜しくはないが、自らの命と引き換えに巨悪に立ち向かうという追い詰められかたを許してしまう社会もいけない。その根は絶たねばならぬのは当然だ。

逃げ場となった者は、二番手三番手の出現を根絶やしにしなければならないが、陰湿な連合軍はきわめて強力で、中々にしてその解体を目指すのは難しい。しかもその強力な連合軍の裏で糸を引く者が居ると思われるわけだが、この存在は更に気持ちが悪い。恨みつらみから発したいじめはそうそう止むものでは無い。

それにしても愚かな事だ。本業で見本を示すのであればまだしも、いじめと言う社会悪を振りかざすとは。気を付けねばならぬ。無意識にそうなっていないか、自らも律しなければならぬ。その上で対処していかなければならない。厄介事が止むことはない。それが組織と言うものなのかもしれない。順風満帆など経験が無い。常に逆風の破天である。焦るべからずと言う事か。

リスキリングの根っこ

リスキリングって自らの人的資本の価値を生涯にわたって高め続けるための手法だと思うのだけれども、日本の多くの企業にとっては、社員が脱走してしまう事を防ぎたかったり、部下が自分より知識が濃くなってしまうことを恐れて、それをさせない風潮があるらしい。あるらしいなどといい加減な言い方になっているのは、まだ、1事例しか具体的な事例に出会っていないからだが、恐らく、多くあるのではないかと推測している。

例えば小生が顧客関係性と使う時には、顧客が他者にどれだけ利益をもたらすかにどのように貢献しているかということを意味するのだが、一般的には大福帳に記載された内容だけであって、それを管理するシステムを導入することがDXの第一歩となるらしい。何と体たらくであることか。週末のMBAとか、なんとかコンサルとかが横行するわけだなと思う。何の知恵も経験も技術も要らない。要らないから低次元の学びとなり、時代の進化をリードしない。お互いに傷をなめ合うのが我が国の人材育成らしい。

何もAI分析スキルを身に着けることをディスっているのではない。そんなスキル獲得が日経のトップに出てくることすらおぞましい現状である。お隣の国では10年も前から初等教育において実践されている内容が、今、漸く、我が国において特定の企業が実践しますよと言うことが話題になってしまうのだ。初等教育において何故、出来ないのか?教師がそのスキルを持っていないというだけでは無かろう。「さいたさいた桜がさいた」という美しさに麻痺して、世界の進化を見ようとして来なかったからだろう。

そうかと思うと「大学は改革の最後のチャンスの時期ですよ」と本社は仰る。何故、国が高等教育機関に税金を投入しているのか説明が出来ないような大学は消えなさいと言うことだ。それは正しい。仰ること、ごもっとも。小生もそれは思う。世界に対して良質な論文を提供しなければならないわけだが、それでは企業はその知恵を活用するように挑戦しているのか?大学の頑張りを「関係ない」と思っているところが大いにある。大学だけの責任ではないぞ。だからスタートアップ&ベンチャーなのだなと思う。

明日をどう生きるか?

定年退職時期が見えてくると、様々なお誘いが掛かってくるようだ。耳に入った一つに「退職後に、自分が本当にやりたかった事業を興して儲けさせてあげよう」という、まぁ、ねずみ講の親戚みたいな起業塾がある。これが本当にいやらしいのだが、それに参加してしまう方がそこそこいらっしゃるらしいのだ。本当にやりたかったことで数億円を儲けましょうという、それが出来れば誰も苦労はしないわけだが、あるだけましの退職金を突っ込んでしまって、熟年離婚の種にもなっているらしい。

観光で生きられなければ自ら起業しろと言う首相の掛け声も効いているのかどうかはしらないが、どうして引っかかってしまうのかと不思議で仕方が無い。そもそも「儲ける」には必要とされる事柄に対して、ライバルと成りえる者よりも圧倒的に上位のアウトプットを出せる必要があるし、「儲け続ける」にはそれを更に発展させ続けないといけないわけだ。いきなり天然素材の化粧品なんかを作って売りたいなどと思っても、まぁ、趣味で自分使いが関の山だからね。

教師をやっていた方が、その教育ノウハウを活かして学習私塾を立ち上げるというのもあるらしいのだが、期末テストで高得点を稼ぎだす術はあるのかもしれないが、社会が求める教育の有り様がどんどん変化していっている今、定年退職された教師の皆さんが小学生を相手に問題を解くトレーニングをするのはどうなんでしょうね。もう、お若い方々に任せておいたらよかろうとも思うのだ。そもそも、それって本当にやりたかったことなの?単に、今、出来ることなんじゃないのと、塾経営の虎の巻に退職金を突っ込まされて路頭に迷っちゃうのだろうなぁと他人事なのだが心配になってしまう。

本当の自分探しって、まぁ、禅修行の目さすところであるわけだけど、それに行きつけた人は幸せだと思う。名人上手と呼ばれる人達は、やりたかったと言うよりもやるべきことにひたすら打ち込み、艱難辛苦の後、正に、艱難汝を玉にすを具現化されたことを考えると、定年退職金を自己投資で増やしましょうなんてカタログ文句に引っかかる暢気な思考で明日が切り開かれるはずはない。自ら学び続け、常に厳しく自らを見つめ、尤も精緻なスキルを活かすところを見いだせれば、それに挑戦するのは悪くはない。しかし、それは自らの人材育成が必要なのであって、外部コンサルによって達成できるものではない。安直な成功は有り得ない。当たり前だ。

連携から

集中して取り組めることというのは、まぁ、嫌いでは無く、自分としてはどうでも良いと思っていたりするのかもしれないが、他人から見ると、それをすることが好きなのだろうなということなのだろう。理系とか文系とか、そんな分け方で進路が決まってしまう現状だが、なんでその進路を選択したのかと中学校時代を振り返っても「そっちで良いや」くらいだったとしか思い出せない。当時から歴史や文学を学ぶことは極めて楽しい事と思っていたにも関わらずだ。

もう一歩、無理やり踏み込んで記憶をたどってみると、国語のY先生が嫌いだったとか、生物関係の単元を倣ったU先生が嫌いだったとか、どっちかと言うと、好きと言うよりも嫌いが先行し、そっち方面から離れて行った気がする。無責任な政治家が「答えの無い問題に果敢に挑むことが出来る地頭を持った学生を育てろ」なんて言い出しているわけだが、自分達があたかもそれが出来るかの如くの言いようなのだが、そんなことが出来れば苦労はしない。

所謂工科系と言ったって、分野の壁は高く、しかし、それを乗り越えて分野融合的テーマを構築しろと言う。これは正しい方向性だとは思うが、最初は分野連携というところだろう。文理融合などとも言われるが、これも文理連携からなのだとは思う。思うのだが、理系人と言われる人種においても、研究を文学的ストーリーで描く人も居れば、文人においてもシステム思考で攻めてくる方もいらっしゃる。要は理系も文系もそんなものは無いのだろうということだ。どちらかが嫌いだからもう一方に居るみたいな者では無かろうか。

デジタル人材云々のお話になると、文系だから解らないといきなり言う方が多いわけだが、言語をSVCだの文型分類をこなし、苦も無く難解な文章を読解できる力は、アナログのDX実践に他ならない。人間の脳内構造など、一部の天才を覘いては同じようなものなのだから、型式分類など意味を成すまい。これがダイバーシティの原理原則である。所詮、これから始まる入試の有り様が旧態依然出逢って、卒業生を活用していく企業の思考はさらに旧態依然ということだ。教育が全てである。次世代を意識して改革に挑まねばならぬ。