人越えのAI

名古屋市内においても街路樹がかなり色づいてきて、間もなく、落ち葉でスリッピーになり、さらには霜が降りるようになって今年の自転車通勤も終わりを告げる頃になって来た。サドルポストが折れて、新しいものに取り換えて、微妙に高さを変えたり、サドルの前後の位置を変えたりして、久し振りにチューニングしたのだが、上等のパーツに変更して、安心感は高くなった。とは言うものの、通う距離が長く、高低差も大きいので、チェーンやギヤなどへの負担がかなりあるようだ。サドルポストが折れるという国産部品への不信感は払拭されることはない。機械製品の安心を失った我が国の寂しさである。

とある経路で、自動車部品の仕上がり具合と言うか、Tier上位が下位から受け取る部品の評価をAIに任せたら、不良品がやたらと出てきたということを伺った。「AI判定って厳しい方向に設定するからじゃないの?」と尋ねると、実は人間目視の限界を越えてきていて、人間では通り過ぎていたエラーをリアルにピックアップできるようになったからということなのだそうだ。ずっとAIによる画像判定は厳しめにやって跳ねた奴から逃人間が救い出すという概念だったのだけど、時代は随分と変わったのだなと思ったのと、もうAIで良いんじゃないと本気で思った次第。

で、AIって現場で何をやってくれるのだろう。論文や物語を書いたり、レポート相談窓口をやったり、相当の芸当が可能になってきて、勿論、センサの総合力の向上、その信号を余すところなく活用できるようになったCPUやメモリ、ソフトウエアのおかげなのだが、それらの進化によってヒューマンエラーがサブμレベルにまで至ったと言う事だ。絹糸一本の違いを読み取るとのこと。そうであれば機械部品のほんの僅かな歪すらキャッチアップするのだろう。近い将来、加工部品の表面化にある潜傷まで獲得し、サドルポストは折れなくなるのだろう。それが正しい姿だと思っている。

人が介在しないと安心できないという人種と、人が居ない方が安心できるという人種に別れる。これはそうだと思う。ブラックボックスから食事が出てきて、さぁ食べろと言われると何が入っているか解らないという恐怖に陥ったりするのだが、そんな状況はいたるところにあって、電子情報による監視の方が信頼できると僕は思っている。ハッキングだのなんだのがあるのだが、疑い出したら人だって同じだ。機械は人が創っている。AIだってそうだ。人が加工した自転車のサドルポストが折れる体験をしてみたらよかろう。素材の能力を最大限に引き出せない人による加工は無くなるべきだ。

栄養自給率を上げないと

北関東からやってきた身からすると、愛知県は極めて恵まれた立地と実感している。この季節になっても地場の農産物が途切れることが無い。勿論、ハウス栽培もあるのだが、路地野菜がこの季節でも成長している凄まじさだ、刈り取られた水田には麦が作付けされ、二毛作が当たり前になっている。もっとも、この辺りは、年に4回はお米が収穫できますという赤道直下の国々からすると「だから何?」と言われてしまうだろうが、食糧自給と言う点において、愛知県の恵まれぶりは凄いと思う。

凄いのだが、先日も語ったが、折角開発した新田が朽ち果てた工場によって潰されていたり、明らかに耕作者が居なくなって雑草生産地となっている状況が散見される。散見どころか、農業地域には必ず存在すると言っても良いだろう。考えても見れば、汗水流して農産物を育てても、収穫量が市場ニーズを越えてしまうと価格暴落になっていく。農協の販売所などでは「これがこの価格か・・」と愕然とすることがある。勿論、「うわっ、手が出ない」という商材も存在するのは事実だが、それとて、フェアトレードという観点ではそれで良いと思っている。

半導体産業を再び日本にというお話に反対するわけではないが、活きる為に必要な栄養自給率を100%に近づけていく努力をしない国は国では無いと思っている。防衛に関してもそうで、専守防衛であるならば、本当に守ってくれるために必要な税金を投じなければ意味がない。勿論、そこにはそこで働く人々の「栄養」も必要になってくるわけで、国家を俯瞰した予算配分が絶対に必要なわけだ。どうもそれがこの国ではおざなりになっている様に感じる。

気が付くと畑にショベルカーが入りブルドーザーが整地して、いきなり薬局が立ったり工場が出来上がったり。住宅団地だなと思っていたらど真ん中に物流倉庫が不愛想に立ち上がったり。農業は大変である。自然が相手で近年では災害によって全てを失う状況が報道され続けている。それでも国である以上、それは何とかせねばならぬ。政治に期待と言うことなのだが、どうなることやら。米国の国政選挙の有り様が羨ましい。そう思う。

脚色の無い食事をしたい

ドライフルーツメーカーなる、なんというか、食品用乾燥機を購入して一か月余り。これが面白くて止まることが無い程に動かし続けている。その以前にはスライスして大きな竹ざるに広げて天日干しをしていたのだが、唐辛子などになると一週間は平気で掛かるし、晴天ばかり続くわけではないから、これが結構、面倒な作業になるわけだ。干したり粉砕したりの手間を考えると、市販のスパイスなどは信じられないほどの廉価であると感じる。フェアトレードという認識が無いのかなと思ったりもする。

この季節になってくるとしいたけなどの価格がググっと下がってきて、これも干して出汁などに使うと便利なので、乾燥機で大量に干して面白がっているわけだ。生のままでは保存が厄介な代物だが、乾燥させると、体積は思いっきり小さくなるし、使い勝手もとても良くなり、先人の知恵に感謝するわけだ。それで目の前にシイタケの乾燥物が並ぶと、どうせなら、昆布も粉砕して、しいたけ昆布茶を作ってみたくなった。免疫力向上に効果のある代物だしね。これから寒くなってくるので丁度良いというわけだ。

それなりの昆布を購入してきて、乾燥具合をチェックしてみて早速、混錬粉砕を試みる。乾燥シイタケはそれこそ瞬時に粉末化されるが、昆布はなかなかにして手ごわい。ふるいにかけて微細な粉だけを取り出して、早速、熱湯に溶いて頂いてみた。ほんのりと両者のアジト香りが伝わってきて、実に味わい深い。要するにだし汁を飲んでいるということなんだけど、そこではたと気が付いた。大袈裟に言う程のものではないが、市販の昆布茶との違いを思い切り感じた。自作しないと分からない人工調味料の味が無い。

市販の昆布茶の原料には、確かに「調味料(アミノ酸)」としっかりと掛かれている。味の素の正体であるうまみ成分なわけだが、昆布茶の味が調味料の味だとは、情けないことに今まで意識を向けてこなかった。偽物慣れということだ。やらなくても良いことをやらないと、この国の民は購入しないということだろう。偽物慣れ。それがこんな一般的な商品にまで入り込んでいたとは情けない。生活も見直して手作りしていく。とことん追及していく。江戸時代に先祖返りだが、そんなものかもしれないね。

執念

昨日の続きになってしまうのですが、根性、必死と、小生がしょっちゅう思っている言葉に「執念」がありますな。何が何でもやり遂げるのだという執念。それを最近、政治の世界でもほぼほぼ感じないのですよ。なんか直ぐに言い訳が始まって、耳に痛いことがあると「辞めます」となってしまう。根性とか必死という言葉はどちらかと言うと「パルス」的で時間的に集中しているイメージで、執念と言うと継続して発揮し続ける精神状態ということかなと勝手に定義している。

米国の中間選挙を見るにつけ、執念の凄さを感じるわけだ。執念だけでは無くて解り易さもある。財政が厳しいから増税すると言うと、そう言わない方向に投票が動く。これが日本との違いだね。増税しないと言って票を集めて、選挙が終わると増税する。加えて国債を無制限に発行して金をばらまく。借金は「お次の方へどうぞ」と先送りする。国民が貯金しているんだから、金があるからそれで良いのだという不思議な議論がずっと続いている国よりは、解り易い政治の方が良いかもしれない。勿論、一人の執念で世界がガタガタすることには反対である。

ロシアにおいても同様で、執念が生んだ殺戮と阿鼻叫喚と言っても良かろう。ついでにミサイルの飛行と爆発と火災で、どれだけ地球温暖化を進めたのだろう。自然エネルギーで稼いだCO2を遥かにしのぐ量を延々とまき散らす様に、国連も何も出来ない。執念とはこれ程に強く無いといけないなと、自らの執念はまだ甘いのではと、より気合を入れないといけないなと思ったりもする。どうも日本人にはこの執念が欠けてきているのではないかと思っている。

結局のところ、何かが形になった時、それは何らかの執念が実ったということではなかろうか。ただ、実ったからそれで終わりと言うのでは、執念が足りない。終わりがないから執念なのだ。そこが根性や必死と大きく異なるのだ。世界は変化し続ける。だから「これでおしまい」というゴールは無いのだ。ゴールが無いのに走りつづけろと言うと、ハラスメント認定されるが、本当はそうなのだ。そのレースに立たされている以上、延々と思考し、企画を立て、進み続けるしかないのだ。流行らない生き方だが、それしか出来ないからそうするだけだ。執念、良い言葉だ。

根性論

「根性」という単語を聞いたり見たりしなくなった。小生としては毎日使わせて頂いているのだが、他の人やTVなどで聞くことはまず無い。熱心とかコスパだとか、何というか、根性とは対極の単語に溢れている。AIの導入が当たり前のはずだが、電子ツールの導入で「根性」を発揮する必要が無いところが多く出てきたが、「必ずやり遂げる」とかね、根性発揮以外の何物でもない領域はあって良いと思うのだ。思ったように行かなかったとしても、根性むき出しでやっていると、それが知恵となってくるのだ。

同様に「必死」という単語もご同輩である。「必死になって根性出せ!」なんて言おうものならハラスメント大賞まっしぐらの世の中だ。間違っているとは言わないが、何か物足りないのだ。興味本位で始めてみたけれど、やっぱり辞めたいなとなった時、そんな時だけは必死に言い訳を探して「無かったことに」と言ってくる。付き合いの中で見えてくるのは、そう言うお方は「辞め癖」というか「逃げ癖」というかそんなものがしっかりと身についていらっしゃる。長く生き過ぎてきたので、そんな厭らしさが解るようになってしまった。

最近では「心が折れる」という言葉を多く耳にし目にする。折れる気持ちはわかる。小生もこう見えても散々折れて血反吐を吐いて、頭の中が真っ白になってという経験が多々ある。本当に多々ある。あるのだが、何故だか立ち上がってしまうのは、そのように育てられたからなのだなと、振り返って思う。今となっては逃げたくても逃げるところは無いし、ぶれようにもぶれて新しい道を探す時間も残っていないから、ぶれずに逃げずにいられるということはある。自分でも不思議になる。歯を喰いしばり血を滲ませて歩いてきたが、それが必死になって根性出したということだったのかもしれない。

「心が折れました、辞めます」という根本には「面倒に感じたら何時でも辞められる」という経験の積み重ねがあるからなのだろう。これは外力によってなんともなるものではない。逃げ出さない人には反省がありリスペクトがある。そんな人は泣きながら歯を喰いしばり、本当に地味に進み派手に戻り、倒れて血を吐き、そして這ってでも進んでくる。迫力がある。尊敬する。そんな人との協業は素晴らしいし、人生の一瞬の中で共に生きることが出来、そして接点を持てたことを天に感謝する。そんな気持ちになる。必死になって根性出した結果に得たものはそれだったのだろう。そう思う。

とある分野は

とある省庁殿から人が押しかけてきて、とある分野におけることに対して「どうすりゃ良いでしょう?」と言う。どうすりゃ良いかはそっちが考える事だろうとは思ったのだけれど、考えられないからお越しになったのでしょう。お話を伺ってみたわけだ。もの根底にある考え方に、自動車産業一本足打法の我が国において、そしてその四番バッターの中京圏において、部品を作れる中小企業殿がこのままだと消えてしまうので、何とか仕事を見出して参画させたいということ。

自動車は当たり前だが、Tier0が設計し、その安全性までをエンドユーザーに約束する。だから粗利は親の総取りが実現する。それが出来ないから部品屋さんはいつまでも部品屋である。でも考えてみて欲しい。世界トップの性能を有する部品を作り出す大企業の商材であっても、同種商材を作っている他社が存在すると、最終商材の価格決定権がない以上、数が出無く成れば途端に実入りは減ってくる。赤字転落、いずれ廃業である。そこでお役所的には新しい分野にその企業群をシフトさせたいのでしょうけれど、そうは問屋が卸さない。

「とある分野」が求める精度と清浄性は、自動車分野とは3桁以上違うのだ。その分野に参入しようと考えるならば、素手で部品を触るという概念は捨てなければならない。人間はナトリウムをはじめ、その分野においては歩く公害でしかないのだ。息をしてもだめ。身体から水蒸気を出しても駄目。全てが駄目なのだ。それが清浄性。精度は熱膨張と言う原子レベルの均一性を求めてくるから、夏と冬でカンコツで機械を調整していますという上から目線は通用しない。カンコツと言った時点で参入不可だし、そもそも自動車製造機械の精度ではどうしようもないのだ。

要するに、当該地域においては「とある分野」のメジャープレーヤー認定を受けられるお企業殿は、知る限り一社のみであって、他はもう無理だ。国が融資するしないの問題では無い。それなりの人材から揃えていかないといけない。しかし、それなりの人材が居ないわけでは無い。リスキリングで、そして居抜きで機器操作からスタートして、徹底的にお金を突っ込み続ければなんとかなるかもしれない。幸い、ユーザーはリッチに存在するエリアである。プレーヤーさえ揃えばというところだが、そう簡単では無い。それが答えだ。

失敗を許しましょうよ

書類ファーストの典型例がマイナンバーカードが全く普及しない状況なのだろうなと思ったりもする。自分の情報が一元に集約され、それを悪用されるのではないかと、負の風評に国民がしり込みする。一元管理してくれたらどれだけ便利になるだろうと、世界の国々の潮流も顧みず、マスコミもネガティブを発する方が国民受けするものだから、そっちに偏りがちだ。デジタル庁から「2024年内に保険証を廃止して、マイナンバーカードを保険証として使うようにします」と言えば、すぐさま首相から「保険証と併用できるという道もあります」と訳の分からないことが飛び出す。

首相の直下にある部局から出てきた言葉を切り替えしてくる。政治と言うものが機能していない事の証明であるから、最早この国は無政府状態と言っても過言では無かろう。一体、何を起点に物事を考えれば良いのやらである。しかしながらどんどんと本社からの圧力は増し続けているわけだが、それに応えたとして何がどうなるのだろうと、何をやっても「けしからん」という足元をすくってくるやり取りに不愉快な思いを抱いているご同輩は多い事だろう。

マイナンバーカードという、日本ではめったにお目に掛れない、免許証以外で初めて見たという共通指標なのだが、免許証はOKでマイナンバーカードは駄目という、これも激しく謎である。スマホを買い替えれば免許証をコピーさせて下さいと警察に紐づいた個人情報を簡単にキャリアに渡す国民が、マイナンバーカードを何故にそれ程毛嫌いするのか。スマホ情報の方が圧倒的に恐ろしいぞと思ったりするのだが。小学生まで持ってますからね。

これが駄目、あれが駄目、完全無欠で無いと駄目というなら、時々、リコールが生じる自動車の販売は何故駄目ではないのだ?駄目なところがあっても良いではないか。国民の数だけ事例があれば、何をどのように改善すれば良いのかと言う指針が生まれるだろう。それを繰り返して良いものに育てていけば良いだけだ。日本人の「失敗即死」という考えは捨てるべきだ。所詮、人間が創るものである。完全なものなど有り様が無い。尖った専門家を集め、為政者は意見を聴き、そこで判断する。学者と為政者は役目が違うのだ。学者は政治に口を出さない、政治家は学問に頭を下げる。そのお互いのリスペクト関係を獲得するところからかな、この国は。先は長そうだ。

変革を続けないと・・

だんだんと見えてくるものがあって、古い言葉で言えば機械化、今でいうなら情報化と言うことかもしれないけれど、日々の業務効率を上げていくことを考える人と、今からの変更を絶対的に拒む人と、その両極端なのだなということ。「何故、それを成すのか?」という問いが存在する場と、存在そのものが認められない場と。人間中心か作業中心かということなんだけど、後者の存在がメジャーなうちは、仕組みの変革というものは生じないのだなと実感している。

外界と繋がっているわけだから、組織単独で決定できることは限られているわけだが、それは外から見て成すべきことが決まっているということで、それをどのような作業によって解決するかは事業所側のやりように委ねられているはずだ。それが数万年前からのやり方で延々と繰り返し続けるということは、大きな決断によって変革が可能だ。事業所全体を一気に変えないといけないから、それはそれで大変なことなのだが、ワークフロー入力とかね、一夜にして成し遂げてきたわけだから、次もやれば出来るはずなのだ。

考えてみると、今までのままであり続けたい組織において、改善意識を持った人間と言うのは間違いなくエイリアンで、排除するべき存在である。しかしながらご存じの通り、エイリアンはしぶとく手ごわい。そう簡単に倒されないのは周知の事実である。そもそもエイリアンそのものがイノベーションであり、受け入れられないことが必然ではある。しかし、エイリアンは増殖し、いずれ押さえきれなくなる。その時では遅いのだ。

ヒューマンファーストが書類ファーストになる。創造という意欲を持つこと自体が異端視され続けるわけだが、オフィスと言う場がオンラインでは絶対に得られないアウトカムズを創造する場でなければならなくなっている状況において、部下の監視が出来ないから旧態依然が良いのだとかね、上長はアウトカムズを産んでいらっしゃるのかしら?今日もバックキャスティングだ。フォアキャスティングの守りの方々にはご退場を願いたい。そう思っている。

文化

昨日は文化の日という、もともとは明治大帝の生誕日を祝う日であったのだが、紆余曲折、GHQの介入で文化の日となったわけだ。自由と平和を愛し、文化を進める、再び戦争を起こさない平和な世の中にしようという願いの元、創られた祝日である。文化ってなんだとなると、なんだか難しく考えてしまうが、その時代で人々の創意工夫によって出来上がった、誰も泣くことが無いような仕組みも、立派な文化財だろうし、それを作り出した人の心こそ文化だと思うのだ。

当地に住まわせて頂いて少なからずの日数が経過したが、神社仏閣、城郭だの、街だの拝見してきたわけだが、それはそれで素晴らしい文化財であり、後世にとっても価値のある財産である。負の遺産と呼ばれるものもあるが、それは呼ぶものの価値であって、それがどのような敬意で創造されたのかまでを含めて考えれば智慧となり、それは後世の人類にとって価値であるから、立派な文化財である。イタイイタイ病の発生因である亜鉛鉱山などは立派な文化財だ。

そんなことを思いながら、車窓から眺めたことはあったものの、現場に行ったことのないところに出掛けてみた。戦後の人口増加と食糧増産の為に、自然を破壊して創りこんだ場であるのだが、その場は既にバブル崩壊の後に収益増大化が進み、新田エリアが極めて醜い、そして汚らしい、産業人の心を映す鏡となっていた。これも文化であり、人の有り様である。日本人が過ごしてきた昭和・平成・令和の文化である。

歴史の変遷が垣間見え、じっくりあるくと、教科書はもちろんのこと、観光マップにも掲載されようがない歴史を智慧として獲得できる。その場に行かねばならない。圧倒的なスピードで文化は消え去っていく日本である。過去を否定し、消し去ってきた日本人の歴史観は、文字としての記録も信用ならない。それ故に自らの目で確かめ空気を感じ取り、自らの文化としていかねばならぬ。それは人の数だけある。Web環境では得られないものはこんなものなかと実感した。貴重な文化の日であった。

半導体は

「シリコン結晶に電子的な欠陥が」なぁんて言っていた、学生時代が懐かしい。国が日本の半導体産業の復権とか暢気な事を言っているわけだけど、当時と研究者やそれに取り組む企業の数、そして景気がまるで違いますからね。政治でねじ曲がったものを、40年の時を経て戻すというかそれよりも上を目指そうなんて、よくもまぁ、言えたものだと呆れる。給料がどかんと上がって、国民がものを買いまくって、税収が増えまくって、その分を半導体産業につっこみます位を言ってくれないと、とてもではないが、基礎研究レベルから技術の積み上げなど出来るものではない。

そのプロセスの芸術性たるや。宇宙が創造したシリコン原子が、地球の環境下で半導体となって使えるように自然に配列し、そしてそれが半導体として活躍できる温度帯で人間が生きているという本当に微妙なバランスの下に成り立っている。奇跡としか言いようがないわけだが、その神があたえし素材を切って磨いてその上に、数ナノメートルのスイッチを無数に並べて、それが産業の米となる。シリコンの板の上に線を描く装置だって、日本は辞めちゃっているから、新たに立ち上げないといけないし。それには数千億円の開発費が必要となるだろう。

装置開発一つとっても、物まねで出来るレベルでは無いし、今の世界のトップを越えていかないと、立ち上がる頃には世界のビリみたいになっているでしょうからね。特に、半導体のユーザーは沢山居ても製造のプレーヤーがほとんどいない中京地域において、新しく半導体産業を興そうなんて、言うのは簡単だが、実行するにはとてつもなくハードルが高い。そして多い。

ユーザーが居るんだから、受益者負担で金を出すのが当然だとは思うのだ。商品には金を出すけど、研究や開発には出しませんよということがずっと続いていて、結局、それで研究サイドが倒れてしまったということなのだ。大学には金は出さない。下請け企業にも金を出さない。留保で太って緊急時に備えるって、もう、緊急時は過ぎてしまっているのだ。それでも半導体素子が大切だというのであれば、最低でも一ヵ所に10兆円の投資が必要だ。研究者の育成から今、最新のライン構築まで。GoToで生み出す税金では賄えない。やるべきだと思う。挑戦者を集めるのであれば、間に合うかもしれない。