去る時代

この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる
迷わず行けよ 行けば分かるさ

ご存じ、アントニオ猪木さんの『道』である。小生とプロレスと言うことであれば、やはりジャイアント馬場さんから始まりアントニオ猪木さんで終わっている。力道山さんは伝説でしかなく、小生的にはこの二人が作られた、ある意味、楽しいプロレスが好きである。単なる殴り合いの暴力ではなく、ヒーローが必殺技でヒールから勝利をもぎ取る。幾度となく倒れ、そして立ち上がってくる。相手の必殺技を紙一重で耐え凌ぎ、そして自らの必殺技で勝利し、喝さいを得る。

振り返ってみれば講義での教壇での立ち居振る舞い、話の構成、終わりの鐘の直前の身振り、そしてフレーズは、彼らのリング上でのストーリーをイメージしていた気がする。勿論、学会などでは世界初の成果をさりげなく、当たり前のごとくに説明し、結論においてずばっと決めて、場内の感嘆の沈黙をもって勝利のゴングと感じていた。現場では狂喜乱舞、しかし、表舞台ではさらっと当たり前に繰り出していく。日頃のトレーニングを見せない美学である。

落語の世界では円楽師匠の訃報が突然と知らされ、何時、表舞台に戻ってこられるのだろうと期待していたご両名であるが、自分にとってのヒーローの相次ぐ訃報に放心するしかない。ブレーキの壊れたダンプカーと呼ばれたスタンハンセン氏が、海外から「馬場さんと猪木さんとのファイトは最高の想い出だった」と猪木さんが育てた海外のスターからのコメントを聞かせて頂けるのはネット時代の恩恵だなとは感じるのだが、また一つ、自分が感じてきた世界が消えたのだなと、自らの終焉を実感しつつ、明日が待ち遠しい私であります。

刃物

道具というのは面白くて、特に刃物はモノの形を変えていく道具で、とても面白い。以前、関の刃物が無かったらどうなる見たいな宣伝があって(今もあるのかな?)髪の毛を歯で食いちぎるという恐ろしいビデオだったのですが、それを刃物以外で何とかなりませんかと言うご依頼があった。ちょっとインチキっぽかったのだけど、砂消しゴムで切れますけど、それで良いですか?と言ったらTVに引っ張り出されてえらい目にあったことがある。ヒスイに穴を空ける原理と一緒だけどね。

お医者様のバックヤードのお仕事に病理試験片作りと言うのがあって、生体を取り出して、薄くスライスして、染色したり顕微鏡で観察したりと言うやつだ。直ぐに切れなくなるので何とかして欲しいとか、もっと薄く切りたいとか、そんなお話を頂いた。要するにカミソリの長い奴みたいな、使い捨てのものだから、そんなの切れなくなったら交換したら良いのにということなのだが、「もっと薄く」というところは共感したので、興味本位で引き受けた。

これが酷い刃先で、こんなことになっているのかと驚かされる。ただ、待てよと、これって生ものをスライスするには必要な刃先形状では無いのかと思ったりもするのだ。長い歴史を掛けて商品として売られているわけだから、下手に刃先をいじってしまうと、切れなくなってしまうのではと、ちょっとおっかなびっくりになる。しかし、面白いお仕事であるのは間違いないから、ちょっといじってみたわけだ。すると、金属母材のかなり深部にまで歪が入っていて「これでは直ぐに切れなくなるな」と実感した。

人間は横着だから、ぎりぎりの臨界値を越えたところで「目的が達成された」となると、それ以上に改善しようとはしない。医療のバックヤードで用いられるものにおいてもそんな現状が見えるのだ。これは日本だけのことなのか?とても世界の医療現場でこんな悲惨なものが使われているとは思いたくない。良品廉価と言われるが、そんなことを言ってきたから不良品廉価となっている現状に気が付かないのだろう。人の命に関わる道具がそんなレベルにある。驚愕である。

民主的とは?

10月1日より様々なものが恐ろしい程に売値が上がる。売値が上がれば消費税も増えるのだから、国としては大喜びなのだろう。ガソリン価格の補助なども無くしていくそうだから、運送費用も上昇するのだから、更に貨幣価値が下がっていくということだ。そんなことで、帰路にマーケットに立ち寄って、必ず購入したいというようなものを買いだめではないけれど、今のうちに買っておくかなという気になっている。僅かな悪あがきなのだが、多くのご同輩がいらっしゃることであろう。

そんな中、何故か国葬などが行われ、国外に国を挙げて国葬をしない国という悪しきイメージを振りまいたわけだ。こんなところを昔のマスコミだったらトップ見出しをしてくれたのだなって思うわけですよ。貧弱なマスコミ、そして傍若無人な政府という状況は、何も露国だけではないのですよ。わが国も全く変わらないのだ。船を仕立てて国の外に軍人を送るなんてことは白村江の戦からずっと続いているわけで、海外の状況を見て、酷い有様だと思えるような国では無いのだ。

ついでに言ってしまえば、8月になるたびにこの国は被害者面をしてお涙頂戴の報道が成され、核兵器廃絶だ!と絶叫するわけだが、どんな理由があるにせよ、他国に爆弾を落としに行ったのは日本である。日本は加害国であって被害国では無いのだ。それを決して忘れてはならないのだ。その上で、この時代であるのだから、情報を正しく収集し、平和憲法の下、海外の状況に対して自国の論理はこうであるとぶれることなく言えば良いのだ。それが民主的に選ばれた首相が行うべき行動である。

そうなんだけど、特定団体が選挙をアシストしていて、それを率先した元首相が国葬されたりしてね。これって、民主的な首相だったのかと疑いを抱くわけだ。これに関してもマスコミは騒がず、教育よりも観光に行けとかね、稼げなければお金を上げるよとかね、そんなの政治でも何でもない。猫にでも出来る。未来を憂いても仕方が無いわけだが、毎日毎日憂鬱になるわけだ。マスコミは煩いくらいが丁度良い。話半分に聞くわけだからね。最初から半分以下ではいなくても宜しい。明るい話題が欲しいものだ。

退廃の太陽電池

屋根の上に太陽電池が乗り出したなぁと感じるようになったのはどれくらい昔かしら。1990年には見かけた記憶はあるものの、恐らく2000年頃だと思うのですよ。太陽電池パネルの寿命が大略2~30年だから、そろそろ廃棄物としてのパネルがごちゃまんと出てくるのでしょう。メガソーラーなんてのが目に付くようになってきたのが2010年頃だから、それらが廃棄物になるのが後10年くらい。大型半導体デバイスの大量廃棄が目の前に迫っているという事だ。

太陽電池には様々な仕組みがあるから、単純には言えないのですけれど、どれだけの鉱物をリサイクルしようとするのか。風雨に耐えるようなパッケージングが成されたデバイスだから、壊すのも大変。半導体だけを抽出するのはさらに大変。金属配線などと混ぜて破壊すると、もう、ゴミ以外になり様がないのではと思ってしまう。しかしそこにビジネスチャンスがありそうな気もする。儲からないだろうなぁとは思うけど。LSIの様に金電極がごちゃまんと使われているわけでは無いしね。

太陽電池という形にするのにも、酸化ケイ素鉱物の採掘から始まって、凄まじい数のプロセスを経て、猛烈なエネルギーを使って作る太陽電池だから、それを破壊する時に、丁寧に分別すればするほどエネルギーを使う事になる。すると、太陽電池は完全廃棄が地球温暖化抑止的には正しい姿であって、貴重な元素はゴミとして将来の発掘者を待つのが良いのか?

世界中で始まる太陽電池大量廃棄時代なのですが、これ、全く議論されてこなかったけど、どうするつもりなのですかね。都市鉱山ってLSIチップに使われている貴金属の回収とかね、そんなところが注目されてきたわけですよ。シリコンをリサイクルしようなんてお話には決してならない。これをクリアしようとすると、とんでもなく電力を食う。電気で作ったものは電気で分解しようとすると、恐ろしくロスが出る。太陽電池って本当に環境に良いのか?考えなければならない。

原発リターン

CO2を出してはいけませんとか、カーボンニュートラルだとか、結局のところ、先進国と言うか、最初に経済的に豊かになった国民を有する国のエゴと言うか、好き勝手言い放題と言うか。これをきっかけに原発のお話を盛り返してくる。しかも何処で誰が研究をしていたのか全くの謎の革新軽水炉というものが構築されるのだそうだ。何がどうなるのか分からないが、あれだけのシステムをそう簡単にいじれるものでは無い。「革新」なんて簡単に言って欲しくない。

結局、これは駄目だなという、理屈の上では出来ても、実際に産業的に動かせなかったもんじゅとかね。あれは確かに革新的な代物だったと思うのですよ。東海原発の悲劇以来、それについて議論する事すら許されない雰囲気は良く無いと思ってはいましたよ。ただ、いきなり革新的な原発開発なんてのが飛び出してくると、そこから生み出される電気エネルギーで何するのとか、エネルギーを生産する方向の議論ばかりで、何をもって消費するのかという議論が無く、いきなり大規模エネルギー発生に突っ走る。

国内外で分散電源発生の議論が成されてきたはずで、台風の度に山が崩れて鉄塔が倒れてとか、まぁ、電力の復旧は早いですよとは云うものの、グリッドシステムを維持していくことの困難さ、そして何より、新規電力システムの参入の困難さを維持しているのも、このウルトラ進んだ電力網システムのお陰である。電気を発生させ、そしてそれを活用させていく。銅が世界中で活用されるようになり、近い将来、再利用の銅を検討しないと、新規の銅生産が追いつかなくなる。そのレベルである。

国主導で原発を作り込もうという。ウランをほじくって精製して、活用するまでにどれだけのエネルギーが必用か。勿論、原発が稼働し始めてそこから生まれるエネルギーからすれば微々たるものだ。しかし、そこで生まれる熱エネルギーは、CO2は出さないかもしれないが、間違いなく、地球を温暖化させる熱源となるのだ。熱収支まで含めて公開し、本当に地球を冷たくするのは原発ですよと定量的な説明が必要だ。原発は暴走せずとも大きな熱源となる。きちんと説明が成されなければならない。まさか、革新的軽水炉って熱を出さないのか?まさかね!

淘汰されねばならぬ

子会社は親会社の利益のためだけに存在するのだと、先の大戦が作り出したルールが未だに残っている国である。どんなに学んだとしても、それは上位にある企業の利益の為に活用されるべきであって、自らが、くだらない例えだが、週末にビフテキを食べる給料を社員に渡すことすら許さない日本の企業構造が守られようとしている。Job型というレベルではない。必死に学んで人よりも優れたスキルを有しているとしても、それは平準化されて、成長しようとしない者と同等に扱われる。

嫌気がさして止めてしまうと、今度は辞めた人間というレッテルを張り、能力ではなくそっちを重視して、サラリーなど無能者で新卒から勤めている人間のほうがサラリーが高いという、不可思議な国だ。半導体分野の人員など、みんな、海外に引き抜かれて当然だ。今、学んでいる学生よりも遥かに厳しい学問と、経験を身に着けた者が、日本の5倍の賃金で引き抜かれている。それは当然のことだ。昭和の時代の基礎しか知らない学生を、海外企業が引っ張るわけは無かろう。

教育は恐ろしい程に変わらなければならない。それを何故するかと言うと、海外の産業構造の進歩を先取りするためだと言ったとしても、誰も納得はするまい。今、付き合っている企業に就職出来るのだから、それ以上のことをしなくてもよかろうとと言うことに、多くの研究者が陥ってしまうのだろう。そうで無い者の焦りようは素晴らしい。そんな人達だけを応援したいのだが、なかなかね。家庭の事情がどうのこうのと言うこともあろう。確かにそんな時代が小生にもあった。

でもね、どんな時でも、組織を思って頑張ってましたよ。しかし、この時代においては、昭和40年代、まぁ、1980年代かな?真似て、その中で一等賞になれば世界に買って頂ける時代があったよ。その頃の人間がリーダーとなっている最後の5年間くらいじゃないかな。するとだ、まやかしではあるが、世界のトップを疑似体験したリーダーが居なくなって、負け雰囲気組だけがリーダーの時代がやってくるわけだ。お手並み拝見などしない。自らの機能を最大化させる努力をする。何を言っても聞かない組織に何を言うつもりもない。そんなところだ。やるだけのことはやるけどね。

創造と破壊

創造と破壊。この両方が成長には必要なのだが、この国は破壊が苦手である。研究領域もそうかもしれなくて、所属学会に縛られて、それを頑なに守ろうとする。研究者には専門領域なる看板を付けられて、その領域であれば博士号を出して良いよというライセンスが与えられているから、それが自分達を縛っていることになってしまうのかもしれない。しかし、破壊を伴わない創造だと、いずれキャパオーバーになって組織は崩壊していく。良質な破壊を続けないといけないわけだ。

追従型思考の日本であるから、新しい事を言うと受け入れられず、ロジハラに叩き潰されそうになる。新しいことに過去のロジックは当てはまらないから、異なるゲージを当ててきて「合わない」と排除されていく。破壊する部分に当たってしまったら悲劇と思うか、それが時代と思うか。破壊を否定と捉えずに、新陳代謝出来ると前向きにならないと、猛烈な勢いで変わっていく世界に押しつぶされていくわけだ。DXをものづくりの現場に導入しようとすると反発があって出来ないなどと、そんな企業は既にゾンビだ。

経済の停滞が何処から来たかと言えば、それはもう簡単なことで、世界から見て圧倒的に遅れたものを遅れた方式で作っている企業をゾンビにして生かし続け、破壊してこなかったからだ。昨日よりも新しい事に挑戦していない企業に未来などある筈は無いのに、助成金などというもので、政治家が票を買い続けた結果だ。街角の駄菓子屋など遠い昔に無くなった。しかし、巨大なモールに昭和の駄菓子屋は繁盛している。そんなもんだ。生き方を変えることが出来たら、それはイノベーションである。

理工系と文系という不思議な分け方が中学校において行われて、工場で菜っ葉服を着て油まみれになるイメージの工学部が嫌とか、算数が苦手だから嫌とか、金融機関に就職できないからとか、謎の理由で文系に行っちゃう時代なのだそうだけど、その辺りの都市伝説を破壊しないと、結局、理工系人材増大なんて夢のまた夢である。大学は研究を基軸に新しい教育を模索し実践していかなければ破壊の対象である。自らの破壊も意識して進まねばならない時代である。

国葬

カーボンニュートラルに極めて近い環境だったのだろうなと思うのは江戸時代の「お江戸」の在り方であろう。現代人がそこに飛び込めば不便な事は当然で、そもそも電線が無いのだから。情報共有をしようと思えば回覧板だの手紙だの。手紙とというものがかなりの確度で届いたということも驚きなのだが、紙が貴重で、文字を読み書きする階層はそれなりのものだったのだろうからということなのだろう。それなりの階層がそれなりの役割を果たすというのも大切なことだ。女王陛下の国葬をTVで拝見し、まさにそう思ったところだ。

世界で最も有名な王様の崩御であり、英国のみならず、世界の歴史に足跡を残された方の影響力の大きさを感じたわけだ。とてつもない方の国葬の後に、どっかの国では、反対が強い中で強行される国葬もある。公式には30億円を越える税金が投入されるとのことで、そんなことが一部の人間の我儘で行われるという、不思議極まりない国家であるということを、世界に知らしめてしまう。弔問外交で何が語られるのか?世界に対する国家のプレゼンスを上げることに繋がるのか?

未だに「モリカケ」問題が綺麗になったということは聞いていない。宗教団体と政治との関係性は、マスコミはちっとも突かないが、これの筆頭格として問題視されているご当人である。亡くなったら「ちゃら」ということではないのだ。独立機関である日本銀行を政府の出先機関の如くに見下した発言は、多くの人の脳裏に焼き付いていることだ。国家を安売りし、予見された円安による物価上昇への無策甚だしく、それを先導したことも全て後に残している。

野党の方々も、結局は追従で、与党も野党も無い日本らしさを露呈している。国民の6割が選挙に行かない国だから、まぁ、これは必然なのかもしれない。多くの方々の頑張りによって獲得してきた投票による参政権を放棄するのだから、一部の集団が勝手気ままになんでもやって良いという国なのかもしれない。台風が来れば国土は荒れ放題だ。国土強靭化計画とか建築・土木技術は優れているのだなどと話は聞くが、それは本当の事か?と疑いたくなる。英国の強さをまじまじと見せつけられたなぁと実感した国葬のあるべき姿でありました。

昨日のことだが、久しぶりの風雨に驚いた。ここ数年、暴風雨に見舞われなかった名古屋地域だが、日本海を進む台風進路の右側に位置すると、自然の猛威にはかなわないのだなと実感させて頂いた。伊勢湾台風の被害映像などがTVでは流されたわけだが、その時の様子を伺ったことがあるのだが、台風一過の惨劇をはっきりと覚えていると仰っていた。海洋水温の上昇に伴って、より大型の台風が日本を直撃してくるだろう。インフラは大丈夫だろうかと心配になる。

自動車に限らず、軽量化が推し進められてきているわけで、強度と言う観点で言えば「大丈夫」ということにはなっているわけだが、それは出来たばかりのフレッシュな素材で行われている検査であって、現場で活用されるようになった時、その強度がずっと保たれるかどうか不安である。重厚長大を尊ぶわけではないが、それなりの頑丈さと言うことを求めるためには、素材の量も必要になってくるだろう。

連休の初日の土曜日に樹齢1300年の巨木が林立する、神社に詣でてきたのだが、その森の安心感と言うか、神々しさと言うか、ただただ圧巻である。縄文時代の遺跡から9千年も前から人が住み始めた場所と言うことであったが、延々とその地に人が住み続けている場所にふさわしい森を体験し、近代化とは無縁の営みに感動した。もちろん、現代の環境整備が行き届いているからこそ、人が近づける森になっているわけで、人と自然との正しいお付き合いの姿とはこういうものだろうなと実感した。

歴史が受け継がれるというのは、こういうことなのだろうなと感じる。日本においては弥生時代になる前から、人々の共同生活という形がしっかりと遺跡から読み取ることが出来ている。自然への畏怖から山岳信仰が自然と発生し、山を信仰してきた古代の祈りの場も拝見できた。今のように情報が得られない状況において、台風などの災害は神の怒りに感じたであろう。それは今も昔も同じではないか。人間は進化どころか退化しているだろう。どこまで退化していくのか。恐ろしい。

火中の栗を拾う

円安がどんどこ進んでいて、オリンピックも賄賂まみれで、我が国の品位もどんどん落ちる。英国の故女王陛下の国葬に並列させて、国内で反対意見も大きい中で強行しようとするとかね。それまでにコロナのカウントは極力減らし、病人だらけだけど安心な国とか言うのだろうなぁ。ものづくり地域と言っているけれど、EV化によって使わない技術がどんどんと出てくる。国内の人口が減るわけだから内需は期待できなくなるわけで、それでは国外に販売できるものづくりが出来るのかと言えば、出来るのだろうけど、安く見積もられている国の製品を買いたいと思うかしら?

安かろう良かろうの時代では無い。海外では給料がそれなりに出されているから、高くても買えるから良いものを買うということが世界の趨勢だが、我が国では安かろう良かろうが延々と続く。意識の高い生産者は当然の事ながら、フェアトレードして頂ける国に良いものを送り出している。この国に残ったものが安く買えるということは、要するにそれなりの出がらししか残っていない国と言うことだ。その流れを断ち切らねばならない。

簡単では無い。従前のピラミッド型ものづくり社会においては、価値あるものの図面が降りてきて、それを求められる材料で三次元化し、どんどん川下に流していくわけだ。利益と製品を川下に流していって、与えられるのは次の図面である。そこには挑戦と言う考え方は全く無い。図面が与えられる間は危ない橋を渡らない。渡らないうちに、橋が落ちていることに気が付いたら、はい、それまでである。誰も助けてはくれないね。

敢えて火中の栗を拾わねばならない。弾けるかもしれない、それはリスクだが、弾けたら中から美味しい栗の実が出てくるわけだ。リスクもあるけど美味しさも出てくる。拾わなければ何も無い。栗を拾えないのは、拾ってもどうしたら良いのか分からないからだ。どうすれば良いのか分からないという状態にあったら、そこからオープンイノベーション、大学に駆け込むのが宜しい。その時に勘違いをしてはいけなのは、自らに知恵を付けようとするなら、ゼロ円と思ってはいけない。知恵をリスペクトする方には開かれた大学である。お越しください。