ポジション考

世界の国々がどちらを向いて日頃活動しているのかということが、大国が戦争を仕掛けた時に明らかになりますな。日頃、笑顔で握手していても、実は100%の信頼性があったわけではない。手を結ぶ相手はマルチにあって、エフォート管理の如く、こちらを減らしてあちらを増やすみたいなね。現状の戦争を、後の人達は何と呼ぶのかわからないが、あってはならなかったのは間違いなくて、誤った指導者を持つことの悲惨さを改めて認識できた戦争であったということだ。大なり小なり、指揮系統の上下というものがあり、自らがこのような理不尽を発生させていないか、気に病むところでもある。

実は強い人なんて居なくて、みんな同じなのだけれど、なんというか、背負ってしまった「何か」が人に憑依して、人がいつの間にか「何か」になってしまう。人と「何か」は全く違うのに、人と「何か」がイコールとなってしまうと、行きつくところまで行ってしまうと今回のような戦争に至るのだろう。生まれた時には真っ裸で、誰彼の区別など無いのだ。個性も価値観も無く出発する。生きていく間に関わる人間の影響を受け、徐々に自我が構築されていく。集団生活を通じて自分と同じ背格好なのに、自分とはまるで異なることに喜んだり感激したりする人間の存在を知るようになっていく。

学校と呼ばれるところまで年齢を進めていくと、好ましく感じないルールを強要されて、全てが同じ形のジグソーパズルの如くに精神を捻じ曲げられていく。人と異なることを「異常」と認定され、異端者と呼ばれはじかれていく。異端者と呼ぶ側の中核人物はリーダーと呼ばれるようになり、異端者狩りの先頭に立つ。それが高じていくととてつもないポジションが憑依して、ポジションが人となり、そのポジションに支配されてしまうと、ポジションが憑依した人間から離れることを拒み、従わない者を全て異端者認定して突き進んでいく。自らの完成された価値観を貫き、自ら創造した価値を強要していく。

上位ポジションが守るべきはポジションでは無い。組織の構成員であり、その組織そのものである。ポジションとそこに就いている人は別のものであって、ポジションが実施するべきミッションを、自らの価値観で色を付けて、組織を前向きに変化させ、社会の変革を前取りしていくことが人の役割である。ポジションが前面に出てしまうと落としどころが無くなっていく。価値観を信じて頂いている構成員を裏切ることなく、疑うこと無く、一歩一歩進んでいくべきと認識する。どう色眼鏡を掛けても日本の地位が下がり続ける世界情勢の中、巣立った若者達にこの国を背負わせて良いのかと悩んでしまう私であります。

プラスチック考

一時、いろんなニュースサイト等で話題になっていた海洋マイクロプラスチック問題。国連環境総会でプラスチックごみ対策として、法的拘束力のある国際協定を2024年までに作ることが採択されたそうな。採択決議には日本から提案された内容が多く盛り込まれたとの事だが、単にそんな方向性の国際条約を制定しましょうねということが決まっただけだから、これから作られる具体的な内容を見ていかないことには、例によって骨抜きになるのでは無いかなという懸念しかない。

何しろ、プラスチックをはじめとした石油由来製品は、その製造は量産性に極めて優れ、それを扱う企業も膨大な数があって、内燃機関を無くすぞって言っただけでひっくり返る世の中なのに、プラスチックの持続可能な生産と消費を実現しましょうなんてどうするんだろうね。陶器だったり、木製品などに使われている、塗料だって環境破壊族であるのは間違いなくて、何処まで人類が本気で取り組めるのだろうと、究極の便利ツールにノーを突き付けることができるのか楽しみではある。

チップにして山に戻すしか無かった間伐材を、割り箸にしたら「勿体ない」とかね。そんな頓珍漢を繰り返す我が国がどれだけ本気で取り組むのかな。プラスチック産業で収入を得て生きている人口がどれだけいらっしゃるか。玩具類やお土産物などだって、いずれはゴミになってしまうわけだけど、それらをビトリマーで作って完全リサイクルしていきますか?ということなのかもしれない。それはそれで美しいと思うのだけれど、街中に溢れるポイ捨てのゴミなどを見ていると、先ずはモラル教育からなんじゃないのと思ったりする。

オーディオオタクは石油由来の部品を「生もの」と言ったりして、金属部品に対して寿命が極めて短い事から言ったりするんだけど、ダンパーまで金属線をつかったカートリッジとかね、昔はどうやったら生ものを使わないかで頑張っていたしりたのだ。それが生ものを使うと意匠性が良くてこじゃれた物が安直に出来て、しかも自己破壊して定期的に収益が上がるビジネスモデルの中核としてプラスチックが使われ始めたわけだ。そのつけが地球を汚したということになって見える化されたわけなんだけど、時代が急転換しているわけで、大変革があっても良いのかもね。そんな風に思ったりする。

2027年

某所で2027年をイメージしろというお話が出た。企業の経営という観点で、企業様が一体、どうなっているのか解らないが、特許があるから世界は私を守ってくれるさという考えは捨てた方が良いだろうという意見に賛同である。鶴舞大学でもご多分に漏れず良質知財構築に躍起になっているわけだが、知財を使った商材の書いては日本の国の外にしか無いわけだし、地球一国みたいなZ世代の方々にとって、知らない人間の古い知恵よりも、自分達がこれからつくるアイデアに重きを置いて、知恵の連携で自分達が本当に欲しいものというのをスモールビジネス連携で創り出してしまうのだろう。

サイバーテロで自動車の生産がストップしましたなんて、とても古くから繋がりのあるお企業様がサイバーテロ攻撃にあって悲惨なことになっているのは胸が痛む。テロ以外に知恵の使い方は無いのかと言いたいが、ハッカー集団が暴力国家のサーバーをダウンさせる知恵の使い方が悪いかと言われると、これは悩んでしまう。違法なんだけど、地球国家の住民としては、なんともはや、サイバーテロには太刀打ちできないなと苦笑いするしかない。

話を2027年に戻すのだけど、その議論をしていらっしゃるのは、小生年齢±10歳位の皆様でありまして、もう、Z世代からは化石認定すらされない退廃の都塵を舐めた物体程度の認定しか受けられないわけでありまして、知財がどうのこうの言っている時点で、世界から取り残されている空気感満載である。議論にZ世代の影形は無く、旧態依然、バブル前のシナプスを後生大事に持っている人達が、そんなことを議論して、地域のルールを定めてはいかんって。

ノウハウとブラックボックス。後は共創。そんな流れをZ世代の皆さんは自然に世界中の仲間たちと自主的・自衛的に作っていくのでは無いかな?自衛の相手は勿論、化石世代企業群であるのは間違いなくて、今でも中小企業を大企業が上位の立場でいじめ抜いているわけだけど、そんないじめはZ世代には通じないから、これからの社会がどうなっていくのか楽しみでならないのだ。そう思ったら、何だか元気になって来て、久し振りの「暴言大魔王」が出現したらしい。2027年、どんな市場になっているのか。そこに参加できるように、15歳の脳みそのまま居たいものだ!

心の底をのぞいたら

カーボンナノクラスター、サッカーボールモデルみたいなのが1990年台初頭に出てきて、これは面白いもんだなぁなどと思ったのを思い出す。その頃からナノテクノロジーなんて言葉が流行り出した気がするのだが、小生的にはサブナノメートル以下の世界に生きていたので、分かり易い大きさで、現象が予想通りに発現するという、まぁ、そりゃそうだろうということで、斜めから見ていましたな。何を申し上げたいかと言えば、肉眼では見えないのだけれど、それが生み出す性質にはちゃんと理屈があるのだなということ。

最近、大国が小国を暴力で席捲するとか、脅迫するとか、目に見える部分が暗い影を落とすわけだが、その根本原因である、目に見えない「心の有り様」に理屈はあるのだろうか?これはご当人に聞くしか無いのだが、その昔、正しかった姿に戻すのだとか、マスコミで報道されるように、元来は我々のものなのだから、侵略では無いと本気で思っているのかとか、見てみたい気がするのですよ、心の底を。なだいなだ先生の「心の底をのぞいたら」という著作に小学生の頃に触れて、それから何かあることに思い出すのだ。見えないけど見たい心、そもそも心って何?とか、がきんちょのくせに真剣に思ったものだ。

見えないものに怯えると言うなら、正にコロナ禍がそれで、先週に比べて増えました、減りましたで一喜一憂しているわけだが、そもそも我が国の検査数は十分では無いし、感染件数を捜査しているのでは無いかという、これも目に見えない疑いの眼差しの中にあり、これこそ文化のある国家であるならば、発表されている数値は本当に正しいのだという、数値の確度はどのように検証されたのか、少なくとも小生は全く知らないし、完璧にお応えして頂ける方を、画面を通じてでさえ目で見たことは無い。

見えないものはナノテクノロジーではなくて、他を操作したい人の心なのだなと実感する。心の世界は無意識にあるわけだが、無意識で気が付いたら他国を攻め滅ぼしていましたなんてことが、現実に目の前に迫っているわけで、じゃんじゃか火炎を上げている中でCO2削減なんて世界は言わないけれど、機械の環境対応で、CO2削減を何て言っているけれど、装置動作で得たCO2削減なんて、ミサイル一発で帳消しでは無いのか?冷えるのは人の心だけだ。寂しい限りだ。

情報衛生

最近「弊社の名を騙るフィッシングメールが送付されています、気を付けてください」というメールがやたらと増えた。本当に増えている。恐らく皆さんの処にも多重にやってきているのではないでしょうか。それと同時に、発信人未登録者からの携帯電話からの電話がやたらと増えてきている。これは気持ちが悪いので、小生は絶対に出ないので悪しからず。

これなどもフィッシングと勝手に思ってしまう。分かった方からの電話しか出ないので、新規に登録番号が増えるということはない。気持ちの良い状況である。特に職場に対してということにおいては、代表にお掛け頂ければ良いのでと、こんなことを書くと、それ経由でくるかもしれないが、取り次がないで下さいで終わってしまうので、これまた悪しからず。

特に、昼休みなどに多く掛かってくる。そもそも論で、貴重なお休み時間であるから、緊急の業務依頼は無い筈で、その場合には緊急連絡網が発動するから、流石にそれには瞬間芸で対応させて頂く。便利ツールであるのは間違いないのだが、初対面の方はご遠慮願いたい。番号が記録に残るわけだが、それで検索をしてみるとどこぞの不動産屋さんだったりね。取り次がない番号リストに入れてしまいますな。

情報衛生という概念があるわけですが、日本と言う国においては、殆ど知られていない単語であり(いやいや、知っているぞというお方は、スルーして下さいね、怒りの電話などはしないように)そのリテラシーは日本は先進国において最低レベルなのだそうで。不確かな情報の拡散をしていないかということで、セールストークなどはその分類に入れているんですけどね。情報の選別・選択権はこちらにあると思っていたい。オンラインでなにもかもが成されていく中、気を付けたい情報衛生である。

戦争につき

強いものが用意周到に世界を暴力で切り取っていく。正義は通用せず、いや、何が正義なのか。国連なるものは指をくわえてみているだけ。罪があったとしても安易に命が奪われて良いはずはない。そうなのだが、教皇とて神に祈るだけでそれ以上の行動には出ない。まぁ、出られないわな。救済行動に出れば核攻撃を受けると脅されて、偽善者ぶる奴は居るまい。我が国だけでは無く、世界中が魔王にいいようにやられている。

ベンチャーだの新規開発だの、それは世界の人々が笑顔で生きて、その笑顔は暴力で奪われないことが前提だ。その前提を大国が打ち破り、それが認められ続けている。世界中から批判は出るが、結局のところ、守るものが他人では無く、自分という状況では、魔物に打ち勝つことは出来ない。商品開発も同じ。自社だけが儲けようとする意識がある限り、自らに魔物を抱えているようなものだ。

孤立無援ぶりが余りにも悲しい状況である。経験がある。経験があるが故に、他人事とは思えない。孤立無援は厳しい。そこに守るべき信念が無ければ、そこで朽ち果てる。大統領殿に自らを重ねる程、図々しくは無いが、その時の切なさを想えば分かり合える気がする。守るべきものがあった。だから踏みとどまることが出来た。どんな辱めにも耐え抜いた。

世界の状況を想えば、戯言をぬかしている場合では無いのだが、ロシアと呼ばれる国が行った暴挙は認められることがあってはならぬ。現代社会において、その思想が認められてはならぬ。それを打ち破るのは、世界のために、人のために、幸せを生む技術で誰かを笑顔にしようと、何事にも屈せず前に進む、若者の心だけだ。老害者は何もしない。もう解っているだろうが、決して君達の為に何かをしようとしない。だから良いのだ。独自の道を歩めるのだ。そうやってきた。これからもそうする。年齢は魂が決める。そう想う。

オタクなオンライン会議

オンラインのお仕事環境で追いついていなかったのがカメラ環境。ノート型PCに内蔵された低解像度広角カメラで「もう少し顔を近づけて下さい」と異なる会議で言われて、そろそろ何とかしなければと思っていた。宿舎においては異なる目的でそれなりのカメラ環境にはしていたのだが、職場環境は疎かになっていた。まぁ、これで良かろうくらいに思っていたのだが、何のことはない、議長だからちゃんとした機材を揃えて欲しいとの事。それで重い腰を上げた次第。

解像度を上げて欲しいという理由の一つが、こちらの手物の紙の書類(会議終了後、シュレッダー行きのもの)で「ここがですね」とかカメラ越しにあちらに送るのだけれども「不鮮明です」と言われ、小声でマイクに向かって内容を読み上げたり、何処までセキュリティというものが正しく働くのかは分からないのだが、そうしてくれと要求されるのだから仕方が無い。こんな低次元なことは日本だけなのだろうなと悲しくなりながらやりとりしていた。

昨日、それなりのカメラと三脚がやってきて、目の前に「でん」と設置されたわけだが、新しい機材は凄まじいですね。そりゃぁ、6年も前の機械が最新鋭になるのだから、エレクトロニクス、特にオンライン会議環境の世界の進化は目覚ましく、その機材にバージョンアップさせたわけだから、劇的進化が無いとつまらない。特に電子機器オタクとしては満足いく結果となった。音声に関しては既にそれなりのものにアップグレードしていたので、これで漸く、オンラインでお仕事環境が「職場」で整った。

どこまでこちらの情報を先方に伝達すれば満足されるのかということだが、画面に数名の顔が並んで、このノイズリッチな先生はなんとかならないのかななんて勝手にぶぅたれていたりしたのだが、その実、こちらも同様に思われていたのだろう。回線速度の問題もあるのだろうけれど、固定写真ですら文句を言われたのだから、それはもうカメラの責任と言わざるを得ない。あまり古い機械を後生大事に使い続けることが、許されなくなってきたとも感じる。オンライン会議を満足させる機器構成がPC販売サイトにあるが、それを信じないと社会迷惑となるなと反省した次第。機械を新しくする言い訳にはなる。それだけがオタクには良い点だ。

長ければ良いってもんじゃない

通常の国立大学ならトップ在任期間は最大六年と定められている。5代の学長にお仕えしていると良くわかる。四年で芽が出れば次の二年で花が咲き、次のトップで実がなる。それを繰り返していくことで、大学としての方向性というか、色というか、それが時代に即して更新されていく。勝手な想像なのだけれど、これが二年で交代とか、四年だったりすると、実にならないで衰退の一途を辿るのだろう。鶴舞大学は、その点、まぁ、色々あるのだけれど、何というか、実を成らせてきたのではないかな。現場に居させて頂いてそれを感じる。

改革の無いところで長すぎるとどうなるか。旧連合体であった地面が自分のものに見えてくるのだろう。旧連合体地域には、その昔を懐かしむ者も居るだろう。その領域と結託して、世界平和の秩序を壊して私利私欲を満たす行動に出る。長すぎるとろくなことはない。少なくとも意思決定と金銭的決定が同一のところにあるとろくなことはない。その平穏無事が保たれるのは六年が限界だろう。だから最長六年任期なのだと解釈している。

親玉が六年で代わったとしても、その下の組織が現金使途不明瞭なままトップよりも長い任期に置かれると、これまた不明瞭なことが起こる。知事や市長が三期、四期と継続するのはいかがなものか。最長二期ぐらいが良いのではないか。特に世界の変革が加速して、情報化社会においては、陳腐さが国民の目に入り、この地域や組織は一体何なのだとなってしまう。トップは批判などものともせず、英断を繰り返し、任期満了の頃には精魂尽き果てていないといけない。それが政治執行者の務めである。

ちょっと周囲を見渡してみると、ポジションを上げながら長期にその座に就いていらっしゃる様が見受けられる。これは退廃の前兆か、それとも独裁に何も言えない民意の表れか分からないが、短期的決断と行動が出来る組織にとっては捲土重来、いや、好機到来、集中と選択で突き抜ける好機到来である。意識を統一し、集中してことに当たるのが良い。まぁ、でも、一歩一歩なのは間違いない。慌てず騒がずが良い。そんなもんだ。

今日は新しいはず

いろんな方が「威張って」これを『やれ!』と叫ぶ。じっと見る。「あれ?それは間違っているのではないですか?」となった時こそ、実はそれが本質的に正解だったりする。まぁ、大略、言われたことは進むべき道では無いのだけれどね。そう、進めと言われた方向が間違っているのは何故か?所詮、人間が定めた方向だからである。もしも道標のベクトルが、人間以外の生命体から発せられたものであったならば?それもまた間違った方向である。

自ら進むべき方向は、自らが決めなければならない。必然では無い、必須なのである。今日が任期切れの日だとしよう。さようならとなるわけだが、クールダウンと呼ばれる日数が決められている。大企業と政府が決めたことなのだが、海外のジョブ型プロフェッショナル制度を適当にあしらっただけの、大企業に都合の良い考え方である。育てることを放棄した考え方だ。

毎日が新しいことが良いのか、永遠に同じことを繰り返しているのが良いのか。どちらも正解の気がしていている。ただ、進化している人間には新しいものが見えるのだと思っている。単にダラダラ過ごしている毎日では、明日は同じ風景になる。明日が待ち遠しく、そして新しく見えたのなら、進化した結果であろう。

何も挑戦せず、新しい明日は絶対にやってこない。今日もきつかったと、今日を振り返ることなどせず、じっと明日を考えてみる。生きているならば明日はくる。人類が生きている間くらいは、地球は回転を止めないだろう。太陽があって、地球が回るなら、明日と定義された時はやってくるのだ。未来は誰にもわからないのだ。わかった顔をしている人がいるが、同調する必要はない。昨日の自分の有り様を決めたのは自分である。だから今日もあなたの今日である。自らを刮目することだ。

茶杓にて想う

泪の茶杓というものがある。秀吉に切腹を命じられ、最後の茶会のために千利休が掘り出した茶杓だ。存在していることは知ってはいたが、実物を拝見したのは初めてだ。中部地域は徳川家のお陰で国宝と呼ぶに相応しい文化財に溢れている。コロナ禍であるから気軽にお出かけというわけにはいかないのだが、文化的学びは一生涯続けなければならない。それこそが他律の根本であるからだ。他を通じて社会に貢献させて頂くためには、自らの価値観の質を高め続けなければならない。それには自らの歴史を文化的に学ぶ必要がある。

今回の冬季オリンピックで世界から嘲笑されたが、何故、日本のオリンピアは負けると国家に謝るのか。極めて奇異であり、小生も不愉快に感じる。転んだシーンを何度でも流し、ミスのシーンで選手が泣く場面を繰り返し繰り返し、何度も流し、切ない顔のアナウンサーを映し出す。何を見たいのか?何を見せたいのか?切腹しろとでも言うのか?泪の茶杓を掘って、茶会でもしろと言うのか。醜い文化である。こんな国民性は沢山だ。

どこの国でもそうなのだが、日本は特に、江戸時代に藩が強く、その国境というものが厳然とあった。地域性が明治の世まで極めて強く残っていた。そのお陰で地域の祭りなど、民族の有り様が今に多く伝わっている。幾たびの戦争という愚かな行為で多くのものが失われたが、男女差別や軍国主義という無くなるべきものが途切れたことは幸いである。文化財の多くを失ったが、民族性が失われたわけではない。失っても良いものが「負けたら晒し者」、「負けたら悪」の風習だ。TV局は放映権を購入し、その資金のお陰で選手が出場出来ているという面もあるが、真実の放映だけで、脚色する権利まで付いてくると思っているかのようだ。

超高速で氷や雪の上で舞う、走る。一歩間違えば死である。その命懸けの肉体と精神の挑戦に賞賛を贈らせて頂き、自分も頑張らねば!と思えば良いではないか。死への旅立ちの茶杓を拝見して思ったことである。極限状態にあってなお、芸術的道具を作りそっれを理性を保ち、道を貫く。自らの日々の活動が恥ずかしくなる。そんな迫力があった。真正面から受け止められるよう、日々これ精進である。それを誓おう。