学者考

一昨日の夜に大きな地震が福島県東部沖合で発生した。震源位置、震源深さから考えれば、それは太平洋プレートが大陸の底に沈み込んでいる事実が引き起こした、地殻の振動であると断言して良い。そしてこれは大略10年前の地学に関係する学者諸氏が仰られた「太平洋側に日本列島が4〜5メートル伸びたから、それを縮ませる力が溜まった時、同程度の地震が30年以内に発生する」と断言された『科学的根拠に基づいた予測』が表出したということだ。

マスコミは例によって、偉大な「定量的予測」が無かったかのごとく、視聴者が泣くような報道はどのようにすれば良いのかに熱中し酔いしれ、低俗な報道が日曜の朝に成されたのはご覧になった通りであろう。学者が「根拠に基づいて定量的」に発生すると言ったのだから、発生するに決まっているのだ。元首相の感情論では無いのだ。

近い将来地震が発生するという科学的根拠があったとしても、それは氏名を伴って公表するのは勇気の要ることだ。誰にでも出来ることではない。しかし、それを成した諸学者達がいらっしゃったのにも関わらず、何処かからそれなりの人を引っ張り出してきて講評させる。そしてその方も、当時の定量的発表をされた方の業績を引用せず、自らの発見の如くのたまう。こんなことが継続しているのが日本の有り様だ。吐き気がする。

学者も自信を持って定量的研究成果、統計的研究成果を公表せねばならぬ。例え小さくても良い。そしてそれを、次世代は引用せねばならぬ。初めて見出したの如くの行為こそ、学者族の立場を危うくする。学者は政治家にも金融屋にもマスコミにも媚びへつらう必要は無いのだ。何故か?自らが拠り所とする科学的分析による定量的データを有しているからだ。そのデータの意味するところの解釈には学者の責任が伴う。それを公表する為には、その成果と共に名を語らねば成らぬ。怖い、だからこそ進むべきだ。科学の進化によって過去の解釈が間違いだとなっても恥じることは無いのだ。地球は太陽の周りを回っているのだ。学者たるべし。そう思う。

当たり前

やっとそうなってくれますか、有難うございますというサービスを目指してくれるらしい。メガバンクの24時間オンライン勘定システムへの移行である。「締め」という行為はとても大切なのだろ言うということは解るのだが、それは「サービスする側」の立場であって、受ける側の立場に立っていないことに漸く気がついたのかも知れない。いやいや、失礼なことを言ってはいけない、恐らくエレクトロニクスが追いついていなかったためだろう。

24時間の意味するところは、恐らくなんだけど、常に勘定が動き続けているということだろうから、世界中の「起きているお仕事」に対応出来るなんてつまらないことではなくて、投資も融資も常時動いているということなのだろう。これこそどランスフォーメーションで、その改革に対応した外部のサービスも直ちに生まれるだろう。徹夜で実験するなんてこととはわけが違う。

施設園芸の世界でも24時間フル稼働して、収穫をジャストインタイムでやっていく試みがスタートしているが、こちらのほうは生き物相手でなかなか難しいことがあるようで、食料生産の完全自動化というのは遠いなと感じている。難しいからこそ関われる余地があるわけで、何でも簡単に為ってしまったら、それこそ、人の居ない世界になって「何の意味があるの?」となってしまう。末恐ろしい。

エレクトロニクスの進化だけでは駄目で、人間の「考え方」そのものを変えていかないといけない。古くなった研究ツールを捨て始めたが、「その当時は最先端」だったはずのものが、もう、何の役にも立たない姿を見ると、今、必死に伸ばしている機能も、一体何をやっていたのだろうとなるんでしょうね。「それ本当か?」と当たり前を疑うことが良いのだが、当たり前の行動を自ら気づくというのは案外難しい。当たり前の行動に気づいたら書き出してみる。愉快である。

ほこたて考

ものづくりの研究をしていると、偉人達から譲って頂いた、偉大なる自然への畏怖の念という学理を土台に、実験から導いた自分なりの工学を立ち上げ、チューニングに至る工程の繰り返しであることが分かってくる。当たり前と言い切れる方は素晴らしい方だ。とてもそこまで及ばない。やってもやっても目指すところが高くなるばかりである。

少し前に「ほこたて」番組があった。絶対に加工出来ない素材を盾に見立て、全てを貫くドリルを鉾に見立て、それらを開発した企業が挑み合うというものなのだが、宇宙には加工(原子を移動させること)出来ない素材は無いから、盾にしろ鉾にしろ、どちらもすり減って、どっちが先に駄目になるかという競走になる。結局、勝ちも負けも無い競争だ。

教育機関のあり様も、世界の情勢が時間軸に存在しているわけで、それをにらみながら先手を撃っていくわけだ。撃ったら終わりでは無くて、二の矢、三の矢と次々と撃ち続けなければならない。疲れたら時間軸から脱落していく、終わりの無い挑戦を続けないといけない。失敗だ、成功だなんて時代が決めるものであって、組織として最善と「考えた」ことを撃っていく、それしか無いのだ。

山登りと違うのは、頂点が無いことだ。永遠の上り坂だ。諦めたら奈落の底が待っているだけだ。あれが良かった、こうある筈だと、そりゃぁいろいろあるでしょうよ。常に新しくなければならない。しかし、揺るがない学理の上に無ければならない。それを何処に持つか。永遠の課題なのだが、決断せねばならぬ。そんなものだ。

二条河原落書

ふと思い出した。二条河原落書。リズミカルで、当時の「粋」を感じる風刺が、妙に記憶に残っている。今、それと同じですねなどと言いたいわけでは無い。結局、暴力の結果生まれた建武の新政は、群雄割拠の乱世になり、そして徳川一強で抑え込まれ、明治維新というクーデターで軍国主義を生み、新しい「近頃都で流行るもの・・」みたいな雰囲気に繋がっているなぁと思った次第。

古きことが繰り返し成され続けているなぁと。何でなのでしょうね。海で周りを閉ざされて、先の大戦まで外国に政治を奪われるまで、国の在り方に対して新しい学びが無かったということなのでしょうか。話題にする人は時々出会うのですが、イスラエルという国の先進への挑戦は、我が国と真逆の環境で育ったものなのかなと感じたりする。新しいアイデアを尊び、それを形にしていくパワー。

エリートを認め、努力した成果を定量的に評価し、それを更に伸ばそうとする風土。一方で、何が何でも過去に立ち戻り、新奇を嫌い叩き潰す思想。自動車業界と半導体業界のお話をしたわけですけれど、半導体業界のTier0は、言ってみればIoTサービス企業であって自動車業界では無い。サービスが求めるものに合う「最善」のものを創り出して提供するのであって、サービスを低下させる機械製品に何故搭載しないといけないのか?

悲観しているのではない。最悪の事態を考えれば絶望しかないわけだが、考えている最悪が、本当に最悪なのだろうか?最悪の事態を語ることすらタブーみたいない風潮があるわけで、まぁ、そんな風潮は無視して行動していきますけどね。何故、過去に戻らないといけないのか?そんなに良かったですか?延々と通勤列車で窒息しそうになる毎日が?会議漬けの日々が?決断しないリーダーのあり様が?

利益構造

一話完結ネタとすると無理があるのですが、Tier2以下の階層にある企業群の氾濫のお話。Tier2以下と言っても売上規模はあまりにもでっかい、半導体素子を作ってしまうファウンドリの方々。日本がはるか昔に捨ててしまった規模感を、毎日巨大化させ続けるその勢いは、世界のIoTを支えきる力強さを感じるわけですが、さりとて、最終製品を作っているわけではない。半導体チップをもらってもちっとも嬉しく無いですからね。最近は剣山の代わりにもならない。薄く、小さく、そして使いやすくなっていく。

一方のTier0の人達は、最終製品を作り上げ、最大利益を獲得する、いわば搾取階層でありまして、それこそ、下層の企業群に命令一下、何時までにどれだけを、一個いくらでもってこいと、それがその通り?に動いてきたわけですな。機械部品的には自動車という機械構造物の数だけ販売されるわけで、これだけの数を出せる、即ち、量を作ることが利益に繋がる構造は他に無いわけですよ。だからTier0の破壊力は抜群だ。

ところが、半導体の皆様にとって見れば、携帯やPC、データセンター等々、「自動車の数?・・ゼロぢゃないの?」と、鼻で笑う気にもなれない基盤産業なんですよ。安全が絶対である自動車のデバイスは、シリコン基板からプロセスルールまで、利益が上がる最先端デバイスルールよりも遥かに低次元のものづくりで、それに関わる半導体製造機械メーカーも「もうやめようぜ」という代物。IoT産業と自動車産業のレベル間の差が、自動車用半導体不足に直結しているわけですな。

テスラやワーゲンの車を見れば、極めてチャレンジングなエレクトロニクスが用いられているわけですが、そうでない車のほうが遥かに多い。となると「だったら1個当たりの買取価格を上げるべきだね」となるわけですよ。1回購入したら、多くの人はそんなに買い換える代物ではない自動車に対して、先進のソフトウェアを使う為に最先端半導体が必要になるという、その逆もまたしかりですが、機能の技術を塗り替えることをへっちゃらにする産業と、伝統工芸の機械産業。大型よりも小回り優先の、ベンチャーを伸ばすには、それを受け止める脳内改革が必要なんだけど、「女子は黙れ!」みたいな国ですからねぇ。駄目だろうなぁ。

嫌な国

江戸時代以前の思考力の方が国のトップに居ると、世界に対して赤っ恥というか、国民として悲しくなりますな。この時代だからということではない。議論を進める上で、より良いアウトプットに到達するという意識が無い。驚くべきことである。自分一人で何でもできると思い込んでお仕事をしてこられたのでしょう。国民の下僕の筈が「意見など時間の無駄」と言い張る。凄い事だ。

それに対してマスコミの反応が小さいですな。ここにこの国の病気状態が見て取れるわけです。マスコミが忖度団体になったのは今に始まったことでは無いけれど、世界から批判を浴びていようが、なぁんにも言わない。忖度もここまでくれば芸術の域だ。恐れ入る。

恐れ入っていてはいけないのだが、駄目なものは駄目って言えないと、どんどん世界から置いてきぼりを食うわけですよ。マイナンバーカードみたいな便利ツールとして使って、ブラッシュアップすれば良いような、エレクトロニクスツールみたいなものには「個人情報保護だ!」なんて国民の側に立った面をするわけだが、結局その行為が、緊急時の助成金が行き渡るのに活用できず、社会に混乱をもたらす。まぁ、マスコミとしては混乱が発生した方がニュースが増えて良いんでしょうね。

ちょっと前にお世話になった北九州市の市議選があったんですけど、57名中12名の女性議員の当選が報告された。30%には到達していないけれど、もっともっと増えて頂きたいと願う。男女半々でお互いが議論で補い合えば良いのだ。議論は時間が必要で、時間が掛かるから要らんとか、意味不明である。しかしそれが通る。そんな国は嫌だ。

未来の椅子

お仕事改革のお話ばっかりで申し訳ございませんなのですが、そもそもその仕事、必要あるのか?という見直しから入らないといけない。今の常態に疑いを持つ。科学技術が圧倒的に進んでいるのに、「今」の作業を何も見直さないで足し算ばっかり。一つの新しいことに取り組むなら、二つの過去を潰す。そのくらいでないと新しい事なんで出来るはずが無いのです。

ToDoリストなんてうっかり作り始めると、要らない項目だらけになる人が居るかもしれない。その人が携わっているお仕事、そのポジション、そのものが要らないのだ。未必の必要性なんてものは、居心地の良い居酒屋くらいなもので、リーダーは常にそれを見つめないといけない。あの人がかわいそうだから?組織を潰す気か?あっ、組織そのものが未必だったのね。実はそれは沢山あると思う。

業務改善とか言っちゃうけど、改善するのではなくて、切除する。未来から見て見えない役割は、消さないといけない。競争に負けるから?国内企業同士で競争して何の意味があるのか。世界を見なさいよ、もう貴方の役割を担っている人はゼロだから。

お役所も、単にお金をばらまくのでは無くて、ばらまいた挙句に自立して、いつか活況になるということと引き換えくらいのことを考えても良いのだ。多くマスコミは判官びいきだが、英国の学費の出世払い制度じゃないけれど、もっと世界を見つめて頂きたい。やり方は一つではない。皆、追い詰められている。それだけが共通だ。新しい答えがあって良い。それを受け入れませんか、そろそろ。

定性的思考

恐ろしい程の定量的会議を行った翌日に、破壊的に定性的なお話を聞かされ、更にいきなりコメントを求められた。物理的に同じ空間に居なくて良かったなと思った次第。思考回路が定性的なのは良いのです。デジタルである必要は無いのですよ。ただ、相手を刺激しようと思ったら、相手から引き出す会話力が必要だ。余りにも単純であぁだこうだ言いながら聞いていたのだけれど、たった一つ、引っ掛かったワードがあって良かった。

コカ・コーラのお話で出てくるビジネス用語なのでご存知とは思いますが「顧客シェア」というやつ。どういう意味かは勝手に勉強して頂ければ良くて、それを「顧客マインドシェア」と仰った。マインドシェアというのは面白い、ユニークな単語だ。プレゼンテーターのオリジナル造語かどうかは知らないのですが、妙に引っ掛かりましたよ。マインドの何%を引き付けるか。これは面白い。

面白いと感じたので突っ込んだら、どんどん追加のお話を頂けた。対話の妙だなと思った次第。マインドシェア、今、現在、自分のマインドシェアを可視化したらどうなるのか。そう思ってみると、案外ツールがあったりして、単語としては聞いていなかったけど、考え方としては古くからあるなと、会議が終わって苦笑い。これも対話の妙。記憶の棚卸は重要だ。危うく真似して使って化石人間と思われるところであった。化石なんだけどね。

物語なのだと思う。必要なのは。物語を語る能力、読み手を引き込む能力。それが必要だ。良書を読み続けなければならない。工学人こそそうなのだが、それを実践していらっしゃる者が減っているように感じる。アナログな夢で良い。良質でワクワクする夢。それが身体に活力を与える。それを引き出す道具作り。これからのお話だ。

労働って?

とある審査をWebで行ったのですが、同元の回線が細いからという事で、映像無し、チャット無し、おまけに打ち合わせ無しという、挑戦的環境で仕切らせて頂きました。どうなっちゃうのよと、進行中に思ったりしたのですが、何の事は無い、挙手機能と、現地に集まっている皆様のアドリブで難なく進んでしまいましたよ。そこに行かないと仕事が出来ないなぁんてことは全く無い。

勿論、参加して頂いている皆様は、もう、在宅当たり前、職場に行かずに成果を求められる以上にたたき出すプロ集団ということもあるんですけど、気持ち良いったらありゃしない。現場に行かないと駄目だなんて誰が言っているのだ。そもそも論なんですけど、その昔のパソコン通信なんて知らない人同士が喋りまくって情報交換をして、いろんなモノづくりに役立てていましたよ。それが何故か、ネットワークが完備された今になって「逢わないといけない」なんて思考が幅を利かせている。

物理的に同じ空間に居ないと議論が進まないなんて思考は、化石より古いと言えよう。それは思考や議論のお話で、ものづくりにおいてはどうなんでしょうね。寿司ネタをロボットが運んでくるなんていうコマーシャルがありますが、あんなものから始まって、試薬の調合だとか、混錬だとか、みんなロボットがやってくれるようになれば、そんなラボが一ヵ所にあって、利用者の数だけアウトプットがあるなんて工場があっても良い。LSIなんてそれに近いと思う。工場に人なんか殆ど居ないし、「ゴミ」扱いだ。

仕事って何、仕事をしている価値って何ってところから、日本人、成長段階を上がらないといけないんじゃないかな。顔を見せないと評価できないとかね、もう、そんな時代では無いね。それだけです。

萎縮力

あったか無かったか、解らないようなお正月が過ぎていったと思ったら、1月が終わってしまった。やたらと濃密なんだけれども、緊急事態宣言のおかげで、皆とワイワイ食事をするなんてことが出来なくなって、仕事をした思い出しか無い日々である。それでも仕事があるだけましなのかもしれない。そう思わないと国難を乗り切れない。と、思っていたら2月である。そして非常事態宣言は延長されるらしい。

どうも呑気である。何かお上に弄ばれているのかなとも感じてしまう。「延長すっからね」くらいの気持ちに感じてしまう。一般民間人として出来ることは、手洗い、うがい、マスク着用位なもので、密を避けろと言われても、通勤がある限りはそれは防ぎようは無いし、手を動かさないと先に進まない職種は沢山ある。それを止めてしまうと存在意義が無くなるような、そんなお仕事は沢山あるだろう。確かに、自宅に持ち帰る(クラウドに自宅からアクセスするという意味でだが)ものは増やしてはいるが、単に土日が無くなるだけだ。まぁ、以前から無いけど。

2月7日までと思っていたら、どうも3月7日までとか噂で聞こえてくる。数値が減りだしたから後一歩なんてことを考えているのだろうが、それは本当か?天気が悪ければ出歩かない。寒くてもご同様、そしてこれから少しずつ暖かくなれば、体力的に抵抗力をもつようになって、単純に自然的に減っているだけではないのか?感染力が強いと言われるウイルスが、突如として「見つかった」と報道されるわけだが、それは無視して良いのか?

小中学生の声を聞いてみたいものだ。どんなものがあったら便利か?と。大人と同じ内容があるかもしれないが、愉快な発想が沢山あるような気がする。今、大人の人も、その昔はそんな時があったはずなのだ。何歳までやんちゃでやり通せるか。研究者なんてやんちゃの権化だ。ただ、アンテナが高過ぎて、ネガティブなことまで思いついて発想を止めてしまう。小学生の時に、先生の言うこと、親の言うことを聴け!みたいに萎縮させられているから、発想が貧困なのかもしれない。言うこと聴かなかった同盟とか作ろうかな?