ゴミ

まっ、いいか、いや、いっか?新しいネタを書いたんだけど、パソコンって、わけがわからなくて、消えてしまったりするのだな。そんな時、神様って呼ばれる、なにものかが現れて、まぁ、頑張ったものを全て消していくから愉快である。そりゃぁがっかりする。どっかの宗教団体が政治家を使って、正当性を訴え続け、首相だろうが何だろうが、正しいと言わしめるという、恐ろしく、且つ、ゴミのような、いや、ゴミに怒られる、日本はそんなもんだ。

何を言いたかったのかは忘れることにして、天下って何なのでしょう。天下の為に何かをすると威張って、眠っている首相の仲間として威張る。面白いお話だ。これが真実などと威張ることが出来やしない。当たり前だ。誰もが正しいのだ。今、南東の土星と木星の連携のおもしろさよ。それを眺めること無しに、明日も頑張ろうとは情けない。宇宙の心理に触れては如何化?

新しいことってなんだろうね?地獄行きの時が近づいてきたから、一歩先の人生が生む限界の価値とは何かって、当たり前の悩みを思う。ちょっと前までは圧倒的な世界の広がりをイメージしていたのに、今は、それを超える世界を描いて、人々と夢をぶつけ合って、苦笑いするだけ。そう、まっ、いいかなんだおね。誰かが新しいことに挑む。それを黙って見ているのか、阻むのか。

阻む。そんなことは無いと言うだろう。でも小生は阻まれた。人間ではないと侮辱された。それは無視するとする。ふっっとわらう。まぁ、そんあもんだって。決まった未来に威張るのなら、もう違う世界の物語かな?そう思う。

雑草の如くありたいが・・

付加体と聞くと、なんだか、何処かから何かがくっついてそのままになったものみたいに感じるのだが、正にその通り。地学で言うところの付加体は、海嶺で生まれた陸地が海溝目掛けて移動していくわけですけれど、その陸地の上に(海の中を想像してください)プランクトンだの火山の噴出物だの生き物の死骸だのが積み重なって、海嶺で沈み込む時に、上に乗っかった部分が衝突している大陸のヘリによって剥ぎ取られた部分を指すわけですな。正に、大陸に付加されたところ。

それが単純な動きをしているわけではないのでややこしいのですが、日本列島は基本的に付加体で構成されているわけです。千数百万年の風雨で表層がかなり剥ぎ取られているとはいえ、ミネラル豊富な大地であることは、もうそれ自体が恵みなわけです。数億年前から陸地であって、雨が降らないようなところには草木も生えず。作物など育ちようがない。作物には栄養が必要だという事です。

その大地の栄養をしっかりと獲得して、ちっとも雨が降らない名古屋のアスファルト道路の割れ目からもしっかりと芽を出す雑草殿は、この日本列島の歴史を反映しているわけですな。水さえあれば何処からでも生えてくる。それが我が国の大地の恵みそのものなんです。そりゃぁ、ヒ素だったりカドミウムだったりの、目の敵にされる鉱物も一緒に存在しているわけですが、まぁ、それらは上手に避けて活用する仕組みを考えれば良いわけです。

ただ、アスファルト道路を根城にしている雑草君達は、その成長に伴って道路をずんどこ割っていくわけですよ。こうなってしまうと、自動車が激しく走行したり、冬の凍結によって割れが大きくなり、大きな税金を投入する羽目になる。そうなる前に根こそぎ取り去りたいのだが、これがなかなかにして頑固。立った姿勢で簡単に、さっと抜けるようなツールをずっとイメージしているのですが、誰か作ってくれないかしら?結局、自分でやらないとダメかなぁと、炎天下にすくすく育つ雑草を見ながら、雑草の如く有りたいと気合を入れるものの、やっぱり抜いてみたいと考える私であります。

222nm

25歳の前後から東北地方の大学に出入りをさせて頂くようになったわけだが、気が付いたらその年齢の倍以上、生きてしまっていることに唖然とする。つい昨日の出来事のようなんですけどね。まぁ、それはどうでも良くて、「光源」を追い求めていた頃のお話。ガマの油売り大学においても光源作りに勤しんでいたわけなんですけど、特に短い波長を強烈に発生できないかしらと、まぁ、いろいろお試しをしていたわけです。

KrFエキシマレーザーというのが強力な光源で、レーザーメスに使えるのではと動物実験とかしたわけなんですが、切った傍から癌になる・・(少し大袈裟)。太陽からも地球には降り注いでいるわけですが、オゾン層がその波長域を吸収してくれているお陰で、皮膚癌で人類滅亡に至っていないことは、なんと有難い事でありましょう。酸素リッチな地球にしてくれている植物群に大感謝と言うところです。

紫外線と言えば殺菌となるわけですが、皮膚癌発生とのバランスで皮膚消毒などには使いにくかったわけですが、米国コロンビア大学のブレナー先生が「222nmの光で新型コロナウイルスを不活化出来る」と本年4月21日に報告されたのを拝見し、癌作りにも寄与するのではと思ってしまったのです。光源企業の代表格でいらっしゃるウシオさんが222nm光源の人体試験を成され、癌は出来ずにウイルスだけ不活化することの判例を積み上げられたそう。

人体照射に限らないわけですよね。空気清浄機のように空気を吸って吐いてをする機械に取り付ける。病院のエアダクトに全部設置したら院内感染源の一つを消せる。コストうんぬんが直ぐに出てきそうなのだけど、こんな時こそ、ドカンと助成金を出して開発を加速して欲しいものです。企業にだけやらせておこうという平等と言う名の不平等を貫く日本のやり方は、もう終わりにするべきだと思いますな。いずれにせよ、ウシオさんの頑張りに注目していきたいと思います。

バックキャスティング

講演会でバックキャスティングとYK氏と語ったのは、もう、何年前だろうか。少なくとも10年は経過しただろうか。当たり前すぎてそれなりの人の口からそれが出てくると、なんだか古風で、その後から出てくる言葉も陳腐に感じる。事実、陳腐なことが多くて、考慮・考察は成されているが、思慮というものが見当たらない。ナイチンゲール氏の看護はもう古いのだなどと、コロナ禍時に威張る輩の「民度」の何と低い事か。方法と様式を一色反にして、バックキャスティングの出発点、即ち、目指すべきゴール設定を考えたことが無いのであろう。

昨日の日経新聞のトップ記事に、介護用ウエアなどの隣国依存が世界的に大きく、日本に至っては95%を超えるというようなことが示されていた。マスクショックで少しは変わったのかと思っていたのだが、結局、設備投資に繋がるようなことはしないという、従来の方向性をしっかりと捉えた経営環境で、日本は安泰だ・・ということになるのでしょうね。天変地異の激しさを見て、食料自給率を変化させようとしているという話もない。我が国にバックキャスティングという単語は無いのだ。

記憶に残っているのだが、コメが余っているから減反しましょうなんて言っていたら、冷害で新米が足りなくなって、海外からお米を入れて頂いたら、美味しくないだの公言する人々がTVを賑わせていた。これなどもなんと情けない事かと思ったものだが、結局のところ、場当たり的で少なくとも数十年スパンでの思考が成されるための思慮が無いということなのだろう。

実際のところ、日本は一体何で儲けているのかさっぱり分からない。工業製品出荷額などということを言っているのではない。幼稚園や保育園のセキュリティが高くなったとか、小学校にIT機器が全ての部屋に完備されたとか、そんな話は出てこない。人の命に税金を投じていますなんて、当たり前のお話も聞けない。結局、国が儲かっていないということに相違ない。国の私物化はもう止めませんか?そう思う。

案外真面目な話

真面目なお話は嫌いなのだが、たまには良いでしょう。IT技術とひと括りに語ろうと思っても、宇宙は何故存在するのかくらいの広いお話が必要となってしまっているわけで、何の技術が必要だなんて些細な議論は無意味だ。逆に、何かの技術が進化すれば、それを活かしたIoT技術が生まれ、AIで解釈され、IT技術となって我々は恩恵を受けるくらいの好い加減な理解で良いのではないか?無関係に存在しているものなど無いということだ。

身近な分野でセンサというものがある。接触センサなどは様々に応用され、医療分野においても重要案件となっている。遠隔医療で数ミクロンの神経にある腫瘍の感覚を、拡大させて指に伝えて、その感覚を頼りに医師が処置をしていく。そんなことが当たり前になっていますと言われても、あぁそうなんですねと、センサとしては形成可能なことは解るのだが、それを使って手術をしてしまうというのは、最早神の手だなと思うわけですよ。まぁ、それくらいは人間の技量の範囲なのかもしれないけどね。

で、「そこに腫瘍がある」というのは硬さの変化で見るそうで、変化は増えようが減ろうが、それは微分値なんですな。微分が出来れば積分が出来るというのは古い会話なんですが、その変化量を雑音に比べて大きくしていくためには、センサの持つ質量を小さくしないといけないわけです。例えば血管の中には赤血球が走り回っているわけで、それなどは鉄を持っていて磁力も発している。センサにとってはそれを頼りに検出も可能ですが、電気的雑音を撒き散らす「面倒な連中」でもあるわけです。結構、大きくて重いしね。

半導体センサは環境から守ってあげないと壊れるわけで、封止するんですが、現行、大略400℃程度なんだそうです。100ミクロン位のシリコンセンサだと、封止時に0.3ミクロン程度伸びるんですね。熱膨張というやつ。室温に戻すとそれだけ縮むわけで、接合部分に引っ張りの応力が掛かる。機械的加工精度はサブサブミクロン位ないと、もう約立たずの機械というわけで、その辺りが世界の開発ターゲットというわけです。加工機械の材料も、加工するやり方も変わっていかないといけない。自動車の精度では全く無意味なわけで、0.1ミクロンオーダーサイズの新型コロナウイルスを力学的にセンシングしようとすると、それなりの加工が必要になるわけだ。そんなこんなで、自動車に引っ張られ続けて良いのかなぁとしみじみ思ったわけですな。

一歩だけのお話

何も言うことは無いのだが、エディターというツールのお話。これは、まぁ、100万件以上のお話になってしまうので、適当なところでやめるのが宜しい。戯言を、それは、まぁ、筆者自身の、それこそ「戯言」として形作る為に、いろんな約束事をふっとばして「まぁ、自らは幸せですね」くらいのところが「約束事」としての聖人の言葉と成るらしい。聖人なんて遠い方のお話は、全くもってどうでも良いのだ。

どうでも良いのだが、何を言いたいかと言えば、まぁ、東大の近くのお話になる。いや、お話は無い。御茶ノ水駅に立てば、ある種の断崖絶壁があり、そこから地下鉄を乗り継ぐと東大にでる。これが愉快で、本郷三丁目という駅なのだが、そこで降りると、東大までに様々なドラマがある。本当にこのまま東大に行けるのか疑問に思える。

今の時期に東京に行き来は出来ないが、東大周辺の雑踏は、寅彦のやんちゃぶりがうかがえる、遠くに省線が走る姿がよろしくて、まぁ、明日の今宵が訪れるかどうか解らないのだが、毎日がどのように新しいのか、いや、古いのかが面白い。

解らないから良いのかもしれない。結局、古いのだ。何を成しても古いのだ。それはそうだろう。新しいと思った瞬間に古いのだ。過去との比較をした瞬間に古いのだ。これが面白い。あっちに行けという。言われると、それは面白いのだ。誰も、過去を認めることがない。それで良いではないか。新しいことを作ったと威張る若手に任せてはどうだろう。やってごらんなさい。難しいから。

愉快なる荊棘の道へ

「イオン」が大型ネットスーパーへの道を歩き始めたとのこと。今更かいなとは思うのだが、コロナ禍下であってもリアルな集客を実現してきた人集め拠点が、それと並列したやり方を選択したということが重要であろう。今までのやり方だけでは駄目だという見本と捉えたい。社会情勢がこんなものなのだから当たり前だと仰る方は正しい。一方で、過去に戻るのだから、現状に過剰な投資をするのは誤りであると捉えている人のほうが多いとは思う。

楽観視は悪いことではない。楽観的な方向に事が進めば、それは幸福ということなのだろう。今までと同じで変わらないことが幸せと思う人はそれがゴールだ。今がゴールだ。素晴らしく羨ましい。そんなふうに人生を達観してみたいものだ。思ったらその通りにはならない人生を歩んでくると、最悪のイメージを持って進むのだが、現れるのは想像だに出来なかった最悪がやってくる。まぁ、そんなもんだ。

これが複雑で愉快なのだ。所詮、人間が想像する程度のことなのだから大したことはない。それを上回るところに価値がある。だからとことん、良くても悪くても想像するということが大切なのだ。想像した範囲の旅は愉快か?行ってみなければ解らない。それをいい加減と罵るか、場当たり的と、やっぱり罵るか、結局は罵られるわけだから、思い切り外したほうが諦めがつくというものだ。

ただ、人間は諦めが悪い生命であるからこそ、これだけの人数が世の中に存在できている。いったい、何処まで増えるのか解らないが、新しいことを生み出さないということは無かろう。その為には今よりも楽をしようとか、楽しくなろうとか、何か想像を超えたものを作り出そうとあがくのが人類だろう。と、勝手に考えて、「何か」新しい挑戦をしていく。消して止めない。面白い生命体である。だからこそ、今日も挑戦を続けるのだ。愉快ではないか!

欲に義が負けること

健康管理が仕事の質を最大にするということを麻生さんが言ったわけだが、この一言だけは真にその通りだと思う。お腹が痛いとか、風邪気味だとか熱があるとか、そんな状態を押して「頑張りに来ました」という方がいらっしゃるわけだが、それは大間違いだ。日曜日の使い方をとやかく言われるのは嫌だが、月が明るくなって暗くなる間に何度か体を休めて、月と会話するのも良いではないか。まぁ、お休みとは重要であるのは間違いない。

ディーゼルエンジンの燃焼効率を劇的にアップさせた工夫をピストンに施したのは日本人なのだが、この発明と言うか気づきも、実は休暇中に生み出されたものなのだ。日常の業務とは切り離された純粋な頭の中に、ぱっとひらめいたアイデアがそれだ。何でもかんでも海外オリジナルの自動車エンジンと思われているが、実は日本人のアイデアも入っているのだ。日本のオリジナルはインスタントラーメンしか無いと言った人も居たが、学びが少な過ぎる。

月曜日、火曜日は完全に在宅勤務状態ではあったのだが、お盆の最中にも業務のメールがドカンドカンとやってきていて、「あぁ、この方々の日常業務にはオリジナルな発想がゼロなのだろうな」と哀れんでしまう。休日無く活動していることを自慢する方々がいらっしゃるが、要はそんな疲労の状態でこなせることしかやっていないということね。業務的秘匿案件も何も関係なく、影で言いふらしていることが小生の耳にまで達してくるとは恐ろしい。

思考が停止する程、披露したのであれば、それは休暇というものが認められているのだから、休まなければならないし、そこまで頑張りすぎるのは、まぁ、時にはあるかもしれないけれど、その状態で正悪の区別が無くなってはいかんのだ。欲に義を思えということだが、欲しか見えなくなるのでしょうね。静かな頭になった。恐ろしいので静かな滑り出しをしようと思う私であります。

無音は?

しんと静まった世界というところに出会うことが少なくなった気がする。静寂と思っていても、何かそこに音があるものである。音とは空気の粗密が鼓膜を揺すぶった時に感じる物理現象であるが、それだけではなく、生命にとっては生きているだけで自分の中に音源を持っているのであって、静寂な世界という現象にはなかなか出会えない仕組みになっているわけだ。

真夜中に水滴が一定の周期で落ちる音を聞いたとする。これなどは夢うつつの継続であることが多く、山中、岩陰で休んでいた時にどこからとも無く体に伝わってきた振動とその音が、精神に染み付いていて、それが思い出されてくるのだろうと想像するのだが、それが確実に目を覚ましているという自覚のある中で続いていると、どこかの水道管が漏洩し始めたのではないかと気が気でない。

こうなると寝ている場合ではないということになるのだが、体を起こしてみるとまるで消えてしまうのだ。床に近いところの音かと思うのだがそうでもなく、横になってみるともう聞こえないのだ。やはり夢うつつであったのかと思うのだが、そんなはずは無いとはっきりと思い出せる音の周期である。

夜中に帰路にある時、竹やぶの中からしばしば「ざざっ」っと音がする。これなども子供の頃に母の生家の裏山で聞いた熊がヤブをかき分ける音の復古であることは間違いないのだろうが、突然、刃傷沙汰が巻き起こされないとは限らず、やや小走りになるのは仕方があるまい。静寂を感じた時は実は聞こえるという感覚が体を離れて別の場所に行っているのではなかろうかと感じるのも、これまた灼熱のお盆であるからか。暑すぎてご先祖様達も参っているのかもしれない。苦笑いである。

真怪奇談

江戸から大正に掛けての話を様々、書物から学んできたわけだが、幸いなことに、残り2日の精神修養期間が残っているわけで、存分に魂をじゃぶじゃぶと洗濯しようと、こういうわけである。量子力学やスペイン風邪、ヘーゲル哲学なども良いのだが、まぁ、古今東西、夏には怪談であろう。

残念な事に、蘇我氏館を鎌足一族が焼いてしまったものだから、国記は焼けてしまい、嘘八百以上に彩られた古事記や記紀という、臍も茶を沸かせないほどの大嘘しか歴史に残っていないという情けない国なわけだが、それでも菅原道真公のご存命の頃から徐々に「正しそう」な記録が見えてきて、道長公の時代になると、複数の貴族が個々の日記に同じ事柄を書き記すように為ってくると、公文書は今と同様に真実は残りにくいが、私文書は正確な記載が残っている。記録としては面白いのだ。

怪談ということになと、江戸頃のお話を読み下すと、あれ?、これ最近、似たような話がTVなどで出ていたぞという事に出くわす。江戸期の書物などは、土佐日記などを上手にパクっていて、それが更に平安朝の物語の「故意」の二番煎じだったりするわけで、本当のオリジナルは何処にあるのだろうと苦笑いしてしまうのだが、怪談は時代に焼き直されてもゾッとするものはぞっとするのだ。悪魔祓いみたいなものではなく、直接的な怖さがある。

漱石のお話などを熟読していると、根津辺りの街角の有り様までが目に浮かぶわけだが、それらが舞台となって、右に曲がって真っ直ぐ行った先で車を降りて屋敷に入り、その入った人は幽霊でしたという、様々な形に化けた「お化け話」を明治期の文章に見つけると、古来、日本人は変わっていないなと恐怖の筋に安心するのだ。怪奇談よりも現実のほうが余程怖い。それは間違いないのだが、じっくりと活字に触れながら、実社会の怪奇にどう取り組むかをじっくり考えるとする、そんな過ごし方がこの時期は良い。そう思う。