出張いらず

多くの国がロックダウン、日本で言うなら県境封鎖か、区域封鎖か分からないけれど、その単位で人の行き来を制限して、感染禍から立ち直ろうとしている。日本の場合、昨日の江ノ島周辺の大渋滞ではないけれど、どうもおっとりしているように見える。おっとりというか、為政者の言うことを聞かない。危険を顧みない。そりゃぁ、誰だって天気の良い休日ならどこかに行きたくなる。が、それをやってはいかんでしょう。

ネット会議なら良いでしょうという雰囲気があるが、自宅からの接続もあれば、職場からの場合もある。面白いと言えばそうだが、この非常時に密度高く割り込んでくるネット会議はどうだろう。出張に出掛けていれば1,2件の会議で済むのに、隙間なく入り込んでくる恐ろしさがある。録音もされて油断できない。

しかし、考えてみれば、かなりの方々が電子会議で良しとしているのだ。そりゃぁ、全てがそれで良いとは思わない。思わないが、全員がそれが当たり前となったら、もう、会議の為の出張は止めて良いのではと思う。オンラインだからこそ実現できることがあるではないか。人の意見を聞きながら、文字列チャットで意見表明する。対面会議では時間の都合で言えないことが出てくるが、オンラインだと問答無用で発言できる。

審査なども同様で、短い質疑の中で「まぁ、良いか、少しくらい」などと思う場面でも、目の前に批判対象の文字列が並ぶと、じっと眺めて意見を言える。どうしたら良くなるかというレベルで考える時間が与えられる。悪いことだけではない。良いことも多いのだ。であるならば、今年はこのまま全ての会議をネット、メールで済ませてみては如何か。黒船である。機会を捉えねばなるまい。そう思う。

自分ごとと思う

土日の行動がまるで変わった。何処へでも出掛けていくスタイルから、じっくり読書、音楽鑑賞みたいな高等遊民の如くの過ごし方になってしまった。本来、土日というものは休息に用いられるべきものだったのかもしれないが、頭をフル回転させる方向に向かっていきそうな気配だ。それはそれで良いことかもしれない。新聞も隅々眺めるが、こちらのほうは読むべき記事などは見当たらず、ネットニュースと大きくは変わらない。

感染拡大は継続していて、4月いっぱいで緊急事態宣言が収まるとはとても思えない。接触者を減らせということだが、人と人の接触が無くなればそれで良いのか?接触をゼロにしようと思っても、食事という行為を停止できないし、当然のことながら食料品店には出掛けるわけで、そこで集う人達の何と多いことか。買い物という、ある意味ストレス発散行為であって、人の群れの密度向上に自らも貢献しなければならない。これは仕方がない。

情けないけれど、仕方がないという表現を使ってしまう。街を車で走れば交差点は大渋滞だ。車の数がどんどん増えている気がする。できる限り人との接触を避けるという点においては、自動車という閉鎖空間に閉じこもって移動することは正しいのかもしれない。それは本当なのだろうか。外気が入ってくるモードで走行していたら、気中に漂うウイルスの蔓延空間になったりしないのだろうか。何と恐ろしいことか。

行政的にお金が掛かるから病院を減らしましょうとか、学校を統合しましょうとか、効率・コストを重視してきたわけだが、そのつけが回ってきたのかなとも思う。経済成長という単語に踊らされていて、何が成長したのかさっぱり分からない。じっと周りを見渡す時間が出来た今、皆で考えるのも悪くない。そう思う。

戯言らしさ

規制大好き、縦割り大好きな日本の企業と行政。それだけぢゃ無いけどね、既得権益があるならまだしも、そんなものは全くないのに、新しいことが大嫌いとかね。AIに定型仕事はお任せして、通勤時間はテレワークで排除して、空いた時間を自分ブラッシュアップに使おうとか、そんなことは眼中に無い。ただただ、規制という名の防御バリアで年がら年中冬眠状態。

コロナ禍でいろんな企業や民間が医療最前線の皆様に対してエールを送ろうとしても、海外ではすぐさま動けるのに、審査に4か月掛かるとかね。国難においても「経済」という業界が喜ぶ単語にこびへつらう国家。国民の命はどこへやらだ。

いやいや、その政権を選んだのはその国民であることは忘れてはならないのだ。税金の無駄遣いマスクは許さないとか言うけれど、選んだんでしょ。マスコミ等々、それ程強く政権批判はしていないものの、その代わりに街の方々のインタビューなどを流しまくって自分達は逃げているわけだが、マスコミも野党批判で潤っていらっしゃるわけで、まぁ、そんな国家という事だ。

ただ、諦めたくはないのだ。エントロピーは増大するのが自然の流れで、利用可能エネルギーはほったらかせば必ず減少するのだ。他国の情報がどれだけ正しいかは分からないが、エントロピーを縮小させるように痛みを伴う改革を採用しているように見える。コロナ禍は必ず終わる。その時では遅い。今直ぐに反転するのだ。そう活動する。

銀輪

公共交通機関の恐ろしさに自転車通勤に戻っているわけですが、帰宅時刻の自動車の渋滞には驚かされます。コロナ騒動以前よりも増えているのは、多くの通勤者が自動車という安全空間に籠っているからか。本当に安全かは謎ではあるが、自己責任領域であることは間違いない。自転車の場合、空間に漂う様々な菌の中を突き進むわけだが、体幹から鍛えていこうという点に着目してその利用を選択している。

そもそも自分を運ぶためだけに地球環境を悪化させるのかという点に疑問を持っている。何か特別な面白さの為にステアリングを握るのではなく、宅配便の荷物の如くに自らを運送するツールなのだ。産業の申し子であることは間違いないが、自動車通勤だけは好きになれない。誰かとシェアライドしてくるとかね、そんなのなら会話もあって良いかもしれない。情報共有の場と言う別の意義が生まれる。

パンクさえしなければ体力が続く限り延々と距離を延ばせるお気楽なツールではあるが、余りにも無防備なのは恐ろしいと言えばそうだ。自動車に正面衝突された時の恐怖を思えば、止めた方がいいかなとも思ってしまうが、満員電車でコロナウイルスにまみれるよりはましかなという比較級だ。どっちがどれだけ良いのかというところに尽きる。

マスクを掛けながら心肺機能を全開するわけで、高地トレーニングかと思わんばかり。満開の八重桜に喜びながら、なにか楽しみを見つけないとやっていけない自転車通勤ではありますが、サイクル小僧の本領発揮で、天気が良ければ血液循環運動という感じで、血気盛んな毎日であります。

安きに流れるのか?

ちょっと趣を変えて日本のものづくり力に対して思うことなど。大袈裟なことでは無く、やはりこの国難と関係することについて。出歩いている人を罪人の様に咎めているが、中小製造業に対して何の補償もしてくれない国家だから、出勤して機械を動かして「製造」するわけだ。商品構築担当のTier0企業は、それらを集積し商品にしていく。

ここ数年来の地政学的リスクの大きさに、Tier0企業は目を光らせて、大きな河川沿いの製造業には仕事を回さないというような流れも出てきた。国の大企業のための保護主義政策で世界の流れに追いつけないなんてことも出てきた。隣の人が罹患者かどうか携帯経由で解る世界がある一方で、日本は全く分からない。為政者は経路が不明だと面白がっているように見えてしまう。決断できるはずなのに。

製造業の現場は強いのだと、そう思い込んでいるところに「出勤しなくちゃ」のお話が出てくる。テスラのメガ工場をごらんなさいな。どれだけデジタルトランスフォーメーションが進んでいるか。路上での不具合が直ちに設計に回り、機械設定を変化させ、マイクロモデルチェンジに持ち込んでいくスピード感。「3Dプリンタで作った金型なんかゴミ」などと、保護主義に走るのは最早日本だけ。

製品設計と工程設計にAIが絡み、高度なエンジニアリングチェーン、言い方を変えればプロセスインフォマティクスが当たり前の世界に、紙のやり取りでどう立ち向かうのか。折角の電子通信利用の社会変革を進めなければならない。不便になった事って、本当は要らなかったのではないか?それを前提に考えてみては如何か?それが出来ずに逃げ口上を語る人はご退場ということであろう。チャンスと捉えるべきである。

遥かなる八割減

昨朝、始発電車は混雑していた。いや、混雑と言う程では無い。立っている人が居ない程度なのだが、駅に着くたびに増えていく。皆さん、時差通勤ということなのか、他人と接触する確率を少しでも下げていこうという試みだとは思うのだが、常連客の小生にすると、接触確率がぐんと増えた感触がある。

出掛けなければいけないのだ。中途半端なリーダーの掛け声であるから、特に、モノづくりの中小企業におかれては、親企業が納品せよという命令のほうがリーダーの声よりも大きいのだ。出掛けたら銃殺とか逮捕とか、そんな命令では無く、単に協力要請であるから、それは出掛けるだろう。ゴミ置き場には溢れんばかりのペットボトルや弁当の樹脂箱である。土日の景色を見るようである。

あっという間の187か国への伝染である。他国の罹患者の増加に比べれは不思議なほどに日本の伸びは低い。そんな報道もあってか、緊張感が見受けられないように感じる。地下鉄から地上に出ると、いつも通りの車の数だ。全く変わらないなと、まぁ、自らを省みてもそうだから、人の事は言えないよということなのだけれど、帰宅時刻の飲食店にはお客様達はいらっしゃるわけだ。

帰宅時刻の地下鉄はと言えば、漸く、袖触れ合う状況から若干減ったかなというところでありまして、8割減が実現しているわけでは決してない。ちらほらと見ていると、小生よりも長い距離を乗車していらっしゃる方が大勢である。辛い同士のご同輩である。これは世界中で同様であって、兎に角、乗り切るしか無いのだ。電子会議が当たり前になってきた。移動時間が少なくてとても助かる。これで良いでは無いか。やっぱり慣れるしか無い。そう思う。

テレワーク初日

不要不急の外出は避けなさいとのお達しであるから、この土日は食料品の買い出し以外はおとなしく書類と格闘していた。と言う事で基本的にはちっとも生活スタイルは変わらないのだ。何店舗か巡るのが通常なのだが、そこは一か所に集中してみてはいるのだが、その一か所がクラスター中心となっていては致し方が無い。

感染経路が不明と言うことが叫ばれるのだが、何せ伝染病である。インフルエンザだって、感染経路なんてさっぱりわからない。豚コレラだって、結局のところ猪が云々なんて言われているけれど、大発生前に猪が豚舎の周辺で目撃されたなんて事実は無いのだ。結局、伝染病の病原菌が何処からきて何処に行くのかなんて誰にも分らないのだ。

分からないから恐ろしいのだが、分からないものに怯えるよりも、最大限の防御を試みたら、ぐっと足を踏ん張るしか無いのだ。東京の感染者増加のニュースを見るたびに、人口に対するなんらかの関数になっているとするならば、発生確率は高いでしょうし、その周辺の県への影響だって大きいのは当然の事であろう。

テレワークとオンワークのパラレル状態となって、どのような状況になるのかということなのだが、例えばメール審議にしても「審議出来る書き方」が出来れば良く、それは対面会議における資料作りにも役立つ能力養成である。やれるだけやってみよう。習うより慣れろである。前向きにいきましょう。

緊急事態宣言

知事の思い切りで緊急事態宣言が出されるかもしれないという状況になった。産業やら経済やらという単語が人の命より尊いように語られる昨今、知事の思い切りに感謝する。心のありようなのだと思う。犬猿の仲の市長からの依頼であったにせよ、大局を見て政権に物を言う勇気はなかなかにして立派だと思う。

賛否はそれはあると思う。思うが、決断するかしないかは大きな違いだ。都知事程に力があって、おひざ元、そしてオリンピックが流れてしまったら、野となれ山となれの地域ではない。産業で成り立つ地域の知事の判断は大きく、そして重い。

瞬間瞬間の判断である。当意即妙という禅問答の神髄があるが、判断とはそんなものなのだと常々思う。誰がやってくれるわけではない。自分で決める。それはなかなかにして重いのだ。陰では何とでも言える。実際に決断することが迫られるのだ。

とは言うものの、緊急事態宣言というものをくらったことはない。そうであるから心に余裕など全くないのだが、最善という行動があるのであれば、それを目指して決断するまでだ。それだけのことを淡々と成す。そうするまでだ。

400人超え

何故か投稿されなかった昨日のもの・・・

別のネタを引っ張り出そうと思うのだが、ついに一日当たりの感染者数が400人を超えたかとなると、結局のところこのネタに戻ってきてしまう。必殺の名古屋飛ばしにあっているわけだが、政府の中にも経済優先で非常事態宣言は止めよという声が大きかったということだが、医療機関の破綻と天秤に掛けて、その状況になったわけだ。

この仕事は停止せよという命令では無く、依頼という状況に変わりなく、命令していないから店じまいしても補償はしませんよと言う逃げ口上はちゃんと作ってある。見事な仕掛けである。まぁ、見え見えなのだが。評論家殿の中にはインフルエンザに比べればへっちゃらで、来年になったら普通の風邪になっているという論調を飛ばしていらっしゃる方もいますが、果たして本当にそうか。そう願いたいのは誰しも同じ。

基本、科学者なわけで、論文を書けば他人に査読をされて、まぁ、そう疑うわなとか思いながら、データを差し込んだり入れ替えたりしながら納得して頂き、了解を得た結果、出版となるわけだ。時代が進んで分析確度が上がってくると、あれはAでは無くてBだったみたいなこともあるのだが、特効薬的なものがあるインフルエンザと、それが無いものでは、そもそも論として不安の度合いが異なる。

致死率は高いとは言えないのかもしれない。しかし、重篤になる場合もある。やはり命の問題である。感染者数の増大傾向だけで非常事態地域かそうでないかという線引きが成されるのは如何なものか?どこかに忖度的力が働いているとか勘繰りたくもなる。出来ることは手洗い・うがいくらいなもので、減っているとは言うものの、乗客が多数の地下鉄で通わないといけない。そんな日本の毎日である。

オンライン講義

大学院の講義をネットで共有しようという動きが、小生が30代の頃にあったのだ。放送大学が鳴り物入り?で登場してきて、その講義の上級版を作ろうという全国規模のネットワークだった。当時のH副学長に「明日東大に行ってNoって言ってきてくれ」という謎のデビュー戦で、20名ほどの副学長先生達から失笑を買ったのを覚えている。

当時はPowerPointは無かったし、HTMLツールも気が利いておらず、ネット環境も極めて脆弱だったから、作り込むのに相当苦労した。ただ、作ってみると講義内容に対する自分の理解が足りていないなというところが明確になって、その後の講義準備の役に極めて良い影響を頂いたのは間違いない。

従来の板書形式を変えて下さいと言うのは耳障りの悪い事だと思うのだが、次年度以降も活用できるわけで、良い講義媒体に仕上げていくことで、プラスになることが必ずある。EUに入る前のスペインが、全土に張られた唯一のネットワークである郵便局のネットを活用して、官民一体で通信教育資料を作り、国の教育レベルを一気に上げた姿は今も忘れない。

100兆円を超えるバラマキをするのであれば、電子ツールを各学校に配布して頂けないだろうかと思ったりもするが、それはかなわぬ夢だろう。誰を恨むことも出来ない。天然自然の猛威が相手だ。人間として成すべき事を成す。粛々といきましょう。