空元気を出そう

GDPが約マイナス7%ということは、実質の給与が7%減ったと言う事だ。もしも自分は減っていないというのであれば、それは他の人がその分もかぶっていると言う事だ。税金が上がり医療費、介護医療費等が上がって、確実に目減りした状況に出会うと、なんだか心が寒くなる。その寒さに負けるとコロナにも負けそうになるので、ここは意地を張る。まぁ、そうでもしないとやっていけない。

自分の足元を見ると、大地に呑み込まれていきそうな気分になるから、大法螺でも良いから天下国家を考えるのがよろしい。小さなことを積み重ねるということは日頃の行いで有効なのだが、天下の情勢を転換するには小手先ではどうしようもない。どうしようもないから大きなことを考え、そしてそれを身の回りに語るのがよろしい。

哲学者が何故名を遺したかと言えば、気候温暖、作物豊富な時代にあって、芸術に溢れた中にあって、市中で哲学者が人生を語ったからだ。語られた人生に対して、自らを省みて、納得した者が多かった哲学者の名が残った。街角に哲学者が経ち、辻説法をする。市中の民もそれを聞くために街に出て、自ら考え様々な世論が出来た。

好みの世論だけを事例に挙げて、全国民の意思の如くに上意下達するリーダーの下、これからどんどん心が寒い世がやってくる。地球は温暖化するが、心が寒冷化するようではよろしくない。空元気も続けていけば本当の元気になるだろう。いや、そうなるような思考をしなければならない。そう思う。

趣味

ふと思うと、趣味に割く時間を殆ど持っていない。唯一、読書という点においては、数分ではあるが断片に取り付き、活力補填に役立っている?と思う。これが趣味ですと胸を張って言えるものって本当に自分は持っているだろうかと、なんだか自信が無くなってきた。無くなってきたのであればこれ幸い、今一度、清算してみるのがよろしい。と言う事で、懸命に教員居室の断捨離を始めた。

定年退職された先生からお話を伺ったことがあるが、「後継者に全部任せた」という最大限に無責任とも感じるパターンと、半年、リヤカーでゴミ置き場を往復したというお話まで、スペクトルの広いご回答を賜った。研究においても趣味と実益があるわけで、論文になった研究テーマは、まぁ、実益の部分だろうし、そうでは無い部分は趣味なのであろうと思うのだが、引っ掻き回して出てくるノートやOHPシートを眺めていると、それが実感できるのである。

しかしながら、記憶に刻まれ、多くの文献を読み、書物を買い漁ったテーマは、かなり趣味寄りであって、そっち方面の書物は今後も読み深めてみたいと感じて捨てられないのだ。論文にしてしまったものは完結したものであって、まぁ、もう良いかなと分切れるのだ。研究室にやってくる学生諸君に活用して頂きたい書物は、共通の書庫に贈るわけだが、それとていずれ場所を塞ぐゴミになるわけだから最小限で無ければならない。後世につけを回してはならない。

電磁波と物質との相互作用ということが小生のテーマの骨格にあるわけだが、今も、「これを成し遂げたい」という強い想いがあるテーマに対して、どのように取り組むかを考えながら、書物の配列を変えている。考えてみれば残り時間は極わずかだ。自分の為に費やす時はほぼ無い状況において、それでもしみったれて学理にしがみ付く。笑われようが何をされようがそんなもんだ。それが趣味だ。実益になればそれに越したことは無いが、時間との闘いである。

旅は自らの自由時間で構成される、生きていることを自らの為だけに費やすことが出来る贅沢な行為だ。傷心を癒すのでも良し、脳のリフレッシュでも良し、何でも良しの自分イベントなのだが、ここ、十数年、気ままな山行すら出来ておらず、仕事以外の一人での移動など無い。恐らく、そんな時は二度と獲得出来ないのではないかと思っている。特に、コロナ騒ぎではどうしようもない。

インフルエンザで学級閉鎖ということがしばしば新聞紙上で出会う。30人学級中に何%以上の欠席者が出たら学級閉鎖と、目安が文科省から設定値として示されている。今回のコロナ騒動では、その指数よりも遥かに低い罹患率であるにも関わらず、小中高の閉鎖が通達された。春休みが伸びたから旅に出ろと言いたいが、家に閉じこもれと言うお達しだからどうしようもない。

そんな時、身体は拘束されても脳内までは拘束されないのだから、是非とも良書に親しんで欲しいのだ。何をもって良書と言うかは各人の選択の自由にゆだねられるわけだが、出来れば世界の文化に触れるような読書をして欲しいとは思う。MITのMicroMastersプログラムなどに触れるのもお勧めだ。これなどを眺めていると、海外を目指す学生ばかりになって、日本国内の大学への進学率がゼロになるのではと思ってしまう。まぁ、それはそれで良い。

3月になると大きな旅行バッグを引っ提げた人達を多く見かけるようになるはずなのだが、明らかに減っている。経済活動が停滞する時だからこそ、脳の貯蓄を増やすべきだ。これこそが人間の本質的な活動であって、AIとロボットが人間の仕事を代替してくれた社会に対する予行演習であろう。どうせなら一般民間人も含めて昨年の大型連休並みの赤日にして欲しいと願ってしまう。怠惰な意識に歯止めは無い。苦笑いである。

人は国家なり

数年前の笹子トンネルの天井板崩落に限らず、我が国のインフラの老朽化・劣化が問題視されて久しい。ものの時代から人の時代なのだから、大規模インフラは捨ててしまえという暴言を吐く輩がマスコミに現れるが、小生はそうは思わない。適度な国土強靭化による国の安らかさというものは確保されねばならないと考えている。あくまでも小生が考えているというだけだが、適切な修繕は絶対に必要である。

年度末になると、各所で掘り起しが始まり、想定外の渋滞に出会う。コロナウイルス蔓延によって移動する人が減っているからか、渋滞の規模は小さいような気もするが、逃げ場のない中央高速道路の集中工事などに出会おうものなら悲劇である。新東名が出来て本当に良かったと思う。これがインフラなのだなと実感するわけだ。

そのインフラも活用する社会が無ければ意味は無く、その社会を構成するのは人なのだから、人の健康状態が維持されなければインフラは何の役にも立たない。鶏・卵で医療に掛かる物資が輸送できなければ健康は保たれず、だからインフラ整備なのだという意見も正しい。正しいだけに難しい。どちらも正しい選択肢状態の解決を手助けしてくれるのが高度情報通信と巨大データのAIによる処理であろう。

人間の神経伝達速度並みの情報伝達速度・量が期待される6G技術開発にもっと真剣に取り組むべきだし、人の健康情報獲得とインフラ情報獲得も並行して行われるべきだ。情報収集と対話によって平和はもたらされるべきだが、石があったら投げたくなる人類同士の対話の前提に、何らかの道具立ても今のところ必要なのかもしれない。話が大きくなり過ぎたが、我が国の国会のやり取りの稚拙さが嫌になる。そんな日々だ。

国費投資先としての大学

18歳人口が減少していく中で、何故、鶴舞大学を文科省が応援しないといけないのか?鶴舞大学だけではなく、全ての国立大学法人に返答が求められている。民間の商店街の店舗であれば、大規模店舗が近所に出来たのに、何で継続するのとは聞かれない。営業継続は経営者の意思で決定されるからであって、運営費交付金なるものが運転資金の骨格になっている現状では、税金の使用理由が求められて当然だ。

常に大学が存在する理由を意識せねばならず、小生的にはそれを所信表明で語っているわけだが、それがどれだけ伝わっているのかはさておいて、地域の特殊性を勘案してその理由を考え続ける必要がある。昨今のAI、IoTを基軸にしたものづくりの正常進化に乗り遅れ、いや、乗ろうとしてこなかった中京地域において、何で鶴舞大学が必要なの?と追及されると「もっと大声を上げ続けても良かったのでは?」と思ったりもする。

一方で、基本は18歳人口内から選抜された「チーム鶴舞大学人」を世界的視野で周りを引っ張っていける勇気ある人材に育って頂くことであり、それを達成していることを前提として、社会貢献活動に活動範囲を広げていく地道な作業を続ける必要がある。県・市事業は勿論の事、コンソ事業も同様の意識で行わせて頂いているわけだし、プログラミング教室なども同様の意識である。地域の元気が命の源泉であるのは間違いない。

社会から見える形の大学のイメージはあるが、その方向性は日本ではほぼほぼ突っ込んだ議論は成されていないし、実践した大学は無い。学生が何人、どんな会社に就職したかということがメインの見せ方から、大きく踏み込んだ指標を出しては見たいが、その実現は若手教員に相当おんぶにだっこ状態になる。なかなかに難しい。しかし踏み出さないと本社から要らない支社と言われる。やはり踏ん張らねばと思う。

大学の未来

18歳人口がじわじわと減少してきているのは周知の事実。とは言うものの、2011年から昨年度くらいまではその減少はかなり緩やかだったわけです。それが今年度から2024年度に向かって厳しく下がる。それから5年程度はやや持ち直すものの、2040年に向かってきっちりと下がっていく。絶対数で言うと、2017年に約120万人だった18歳人口が2040年には88万人になる。100万割れするのが2033年頃となっている。

この数値は人口統計でリアルな数字なのでかなりの確率で当たる。それはそうだろう・・となると、現在の各国立大学法人における倍率のお話と、入学者の学力レベルのお話の両方が問題となる。卒業時の学力が地域社会の要請するレベルまで達成しているのか?それが問われてくる。卒業する学生の質保証が強く問われだしたのもそれが元だ。

社会をリードする、チャレンジスピリッツを心身溢れ出すような若者に巣立って頂かないといけないわけだが、それを輩出し続けることが出来るのかというのが大学が生き残る道だ。国が税金を投入する価値はそこしか無いわけで、学者になるにせよ、企業人になるにせよ、世界の道しるべを生み出せる人材を輩出出来てこその大学の価値である。

なんでもかんでも一番を目指すなんて言うのは何もしませんと同義語であるから、シャープにターゲットを絞り込んで良いのだ。最先端の計算機を入れるから授業料を20%上げますと言うのであれば、それ以上の社会的インパクトが必要になる。やっても良いのではないのか?とは思うのだ。様々な整備がこれからもっともっと必要になる。踏ん張らねば。

イベント中止について

私が参加している学会の年次大会の開催中止の報が届いた。原発事故による中止以来の出来事である。新型で「どうなるのか分からない」から中止と言うことなのだろう。どうなるか明確になっているインフルエンザにおいて、学会が中止されたことは無い。いや、あるのかもしれないが、小生が関わるその学会は、小生が記憶している限りで中止は無かった。

いつも言う事だが、学者であるから忖度も遠慮もしない。駄目だと言うなら学術的根拠が無ければならぬ。良いと言う事でも同様だ。危ないかもしれないからという判断は、安全方向に振っているということで正しいように見えるが、しかしながら根拠が無いから気持ちが悪い。先の連休中にあちらこちらと出歩いたが、潜伏期間内だからかもしれないが、それらしい症状は出てこない。

年間、数万人の死者を一気に創出するインフルエンザウイルスであるが、その発症は1日~2日程度であって、タミフル等の型にあったワクチン接種によって高熱は収まり、後は、その人から他に伝染しない日数、閉鎖空間に居れば良いことが『解っている』。この『解っている』が重要であって、分かり様がない新型においては安全方向に振るということなのだろう。

そりゃぁ、げほげほ咳をしている者であれば、医者に行って欲しいのだが、その医者とその者の自宅との間、どれだけウイルスを発散させるか?確かに、科学的根拠を持って、インフルエンザの流行と比較して致死率が低いから学会は開催しようとはならないのかもしれない。開催していたら「お前は行ったのか?」と言われると、さっさと逃げ帰ってくるかもしれない。買い物すら恐ろしいという気持ちになっている状況であって、しばらく続きそうだ。皆さん、気を付けましょう。情けないがそれしか無さそうだ。

時代

大人の特性は労働と生産であり、子供は逆に、遊びと浪費である。これらは分断される必要は無く、適度に混じり合っているべきだと考えている。働いているばかりでは疲れ果てる。浪費も時にはしてみたい。と、思っているのだが、近年、密室志向の若者の増加に伴って、遊びと浪費が見受けられず、それが大人の労働と生産をも蝕んでいるのではと感じる次第。

ゲーム機に向かってバーチャルの世界で伸び伸びと振る舞っていることを否定するものでは無い。その時代においてそれが娯楽であるならば、それはそれで良いと思っている。そんな世界でのビジネスが発生して、バーチャルな経済圏が生まれるのであれば、恐らくではあるが、究極の「やりたい事」を実現出来る世界に、ものづくりの世界は太刀打ちできないだろう。

LSIや電脳の入り口である端末を作る必要があるではないかと言うかもしれないが、明確な欲求を満たす道具が作られるのは、それは誰かが必ずやり遂げる。食料はと言えば、恐らくだが、今の、小さい単位の生産というものは電子化・機械化された大規模生産に向かうことで、最小限の農薬や肥料で最大限の生産を成し遂げる仕組みが生まれるだろう。リアルな世界よりも容易である。何故ならば邪魔をするリアルが存在しないからだ。

邪魔とは規制であり、既得権益を死守する人々の群れなのだが、リアルな貨幣が価値を持たなくなった時、現在ある支配特権は全て消える。そんな時を迎えないと、何をやっても規制が縛り、ずっこける政治が続くのかもしれない。人間が介入するから上手くいかないことは沢山あるだろう。不確定性原理すら取り込んだものづくりの仕組みが出来上がった時、自分は墓の中で良かったと思うのかもしれない。そんな気がする。

捨てるもの

年度末が迫る中、様々な衣替えが発生しますな。組織人だから私の個人的な都合は関係無いわけで、容赦なく変えねばならないこと、変えてはならないことを骨格に添えて、様々なご意見を賜りながら進めていくわけです。立場上、嫌な事が沢山出てくるわけですが、それは職制上当然の事と受け止めなければならない。それを支える為に、自分を他人視するキーワードは何か?それは捨てること。何を?

第一にプライドという奴ですな。これは厄介。とっても厄介。常に怒鳴られる、威圧される、恐喝される。「昼間でもひとけが無い場所もあるんだぞ」とまで言われたこともある。それでも心は動かさない。表情には出るかもしれないけれど、心は心頭滅却、動かない。言いたい泣き言は沢山ありますが、まずはこれが基本。

思い込みも極めて厄介。これはお互いにということもあるので、これは対話が必ず必要。学んだ結果ということなのですが、例えば長い川を遡上しながら、泥の中を進んだウナギを食すのに、蒸して脂まで落とさないと臭みが抜けないとすると、それを「学んだ結果なのだから泥臭いまま食べろ」と言われても、それは違うぞとなる。一旦、乾いたスポンジにお互いがならないと進まない話がある。

IT化が急速に進む中、組織にとって不要になった仕事、あるいは、不要にするべき仕事は、長とすると消さねばならない。それによる人員削減は当然の結果である。AIががっちり成長してくれれば『長』などは最も不要な職制になるのだと思っている。さっさとそうなれば良いのにと思うのだが、今年度中はその実現は難しそうだ。安定志向は無い。世界の流れは圧倒的に速い。スピード感のある変革は必須である。自分に言い聞かせるところである。

大学入試

いよいよ大学入試ですな。近年、年6回の受験を受け付ける私立大学もあるので、「今日は・・」という区切りを入れることに何の意味もないのですが、鶴舞大学においては今日が前期日程の入試日となっています。コロナウイルスが大気に蔓延しているわけですが、試験を実施する側の問題が無きように頑張ってまいります。

想い出になってしまうのですが、入試に参加したのは1981年ですから39年も前のお話。うわぁっとのけぞってしまいます。笑い話ですが、入試当日、常磐線が「事故で動きません」となり、遅刻してしまったのですが、おおらかに対応頂きまして、今日があるわけです。まぁ、そんなこんなでルール無視はいけませんが、ぎりぎりのおおらかさでご対応させて頂きます。

鶴舞大学で思うのですが、正門から入試会場までとても近い事。これは受験生にとってとても有難いことだと思います。ガマの油売り大学で、バス停を一個間違えたらえらいこっちゃですから。正門から大抵の会場までは5分程度あれば辿り着けますので、万が一、勘違いをして他の建屋に行ってしまっても、落ち着いて行動して頂ける。お企業様の中には「あんたのところは正門から遠すぎて迷った」と仰る方もいらっしゃいますが、「それで良く営業できるな」と言いたいけど言えない(笑)

これから総受験生数が減少を続けるわけで、その中で魅力ある大学であり続けなければなりません。産業の場こそ基礎学理の実践道場と認識している鶴舞大学において、学理の深化こそ我が国の元気の源であるという、そんなワクワクの講義と研究であり続けることをお約束する。そんな場をもっともっと発展させたい、受験の度にそう願うところです。受験生の皆様、落ち着いて実力を発揮して下さいませ。