安心はサイエンスから

冬を前に燃焼エネルギーを停止されると、その寒さへの恐怖から非人道的な行為も許してしまいそうになっている世界に失望する。とは言うものの、お前だって寒いのは絶えられないだろうと言われれば、それは勿論そうである。ただ、今の絶望的な世界の情勢、日本の経済・社会の有り様を見ていると、これから世の中、人にとって前向きになれる情勢になるのかなと疑問を感じないでもない。路地でドミノ倒しだったり、釣り橋が落ちたりと、悲惨極まりない事件が目立つ。自分ならどうだっただろうかと考えてしまった。

本当に幸いなことに、小生は「焦土」と化していく現場ということの体験が無い。目の前が焦土と化していく様を見ている人達が世界中にいらっしゃる。この国が焦土とさせる側に回らない事、そして焦土とされる側にも立たない事を目指して、教育組織として出来る事を考え、実践していくしかない。でも仮に大学における卒業生を企業に送り出せたとして、その企業殿は世界に向かって何を成していらっしゃるのだろうと考えるわけだ。日本の国は世界に向けた産業で自治をしているわけだが、世界から見て理想とされる「もの」を発信出来ているのだろうか。

手前味噌的な「これはシェアが高いから良いのだ」と息巻く経営者がいらっしゃるが、「それって理想のものなのですか?」と問うてみたい。大概のリーダーは怒り出すからあまりちょっかいは出さないのだけれど、シェアが高いから理想じゃないよ。だったらその製品は永遠の代物であるべきでしょ。技術はサイエンスが工学に育った時、安心を獲得出来、そしてその安心の上に、工学によって安全が構築でき、それを前提に商材として作り上げるツールである。新たな発見が出てきたら、今の商材など消えてなくならなければならないのだ。

見てくれが良くて、他に無いスタートアップ企業のアウトプットを購入して、それを闇雲に自社製品に組み込んで、誰かが求める商材としました、それが弊社のカスタマイズでスト胸を張られてもね。その商材で作ったつり橋が落ちないと良いですねと祈るばかりだ。まぁ、これは単なる例えなんだけど、サイエンスをとことん追及して、安心を獲得するまで努力している人ってどれだけいらっしゃるのだろう。新聞紙上に「不正」という文字が躍っている限り、安心って得られていないのだなって思う。神頼みをしたと単にそれすら詐欺の根源に引っ掛かったりね。文化の香る学問に触れ続けたい。そう願う。

事実考

はっきりと覚えているのは1960年代の後半くらいからである。1970年にあった大阪万博と札幌オリンピックのおかげで、その前の記憶が残っているから60年代後半は覚えていると言えるわけだ。そこそこ長く生きているのだが、その記憶は笠谷さんの金メダルは真実だし、そのテレマークもはっきり覚えている。後に余市の駅で笠谷さんのユニホームに出会ったのはそれから50年近く経ってからだが、あぁ、あれは事実だったのだなと解釈できる。脚色された記憶であろうが、事実は確かに発生していたのだ。

事実に対して真実と言う単語が出てくる。辞書によれば真実は、事実に対するその人の解釈ということで使われるのだそうで、主観的な事柄という事らしい。事実に対する意味付けと言うことにもなるのだろうか。あの時、3人が表彰台に上り、金メダルの素晴らしさと言うか、感動と言うか、金メダル獲得という事実に対して、素晴らしい出来事だったと言ってしまうと、それが小生から発せられた真実と言うことになるのか。釈然としないが、真実は人の数だけあるということなのだろう。

真理となるとこれはもっと重たい。研究をしていると学理の探求などと言って、神様が定めた普遍の、絶対にそうなるべき自然界における基軸を探し出すものとして考えてきた。研究にとっては行きつく先だが、本当はそこが出発点であるというところだ。どれだけの真理が明らかになっているのだろうかと考えてしまうが、真理を求めて事実と真実を重ねて生きているのだなと、人間のなんとも小ささを実感するのだ。この土地は俺のものだとミサイルを罪もない同族に向かってぶっぱなしている事実に対して、これは真理の追及みたいな言い方をしているわけで、何ともおぞましい世の中である。

ふと、思っただけなのだけれど、目に見え聞こえるものだって、波長や周波数が限られているわけで、その人にとっての事実であって、だから真実も主観で良いのかなと開き直ったりする。その時にそれは最良だったと為政者は思わないと行動できない。意見の集約は大切がだ、それに縛られて決断しないのであれば、それは為政者として大いに失格である。五感を研ぎ澄まし智慧を巡らせて決断する。それしか方法は無い。これからもそうするのだが、どれだけ続けられるか。人は必ず死ぬという真理がある以上、今を最大に頑張るしかない。それだけだ。

ガイドラインの無い道を行くべし

誰にどんな価値を提供する存在でありたいかというパーパスと、価値提供によって実現する具体的イメージであるビジョンと、その両方を常に持って、常在戦場の気持ちであることこそ生きる意味だと思っている。人が群れでなければ生きられない生命体として存在しているのは、パーパスとビジョンの両方を他者に向けて持ち続けること、そしてそれを新しくし続ける事が出来るためだ。新しくし続けられなくなったら存在悪であって、群れから外れるべきだ。保守という考えに陥った者は、社会から退場せねばならぬ。

世界経済の発展が急減速しているが、新たな産業が立ち上がっているだけだ。産業は燦業で栄枯盛衰。自動車産業が永遠だと勘違いしているだけだ。勿論、自動車そのものが無くなるわけではないが、自動車が作り出すサービスそのものは変化していき、プレーヤーは変わっていくのだろう。その変化に付いていかず「保守」を決め込めばそれは退場を選択したことになろう。人が減って働き手が居なくなるという話があるが、一方では無人工場の進化を加速させる。テクノロジーの進化とは、人に安らぎと思考を与えるのだ。高度な思考が高価な対価を得る社会こそ正しい。

ガイドラインが無いと動けないとかね、ガイドラインて、ガイドだから指針にするものではないし、あぁ、こんなことを考えているんだな、古いなくらいに思っているのが宜しい。そもそもガイドラインというものは、誰かが通った道を、無知な者が物まねで歩く時に必要なもので、大航海時代にはそんなものは無かったわけだ。だからガイドラインなんて本当は要らないのだけど、先駆者の真似をして頑張ってという、成功することが解っているところにしか補助金なりを出さなくて、そこにガイドラインまで付けてくる国ってどうなの。

ガイドラインをくれというのもあさましいし、そのガイドラインにケチを付けるなど言語道断。自らが後追いであることを恥じることが先であろう。後追い主義に慣れ過ぎて、研究費用は回収できる見込みが無ければ出して上げないという国や企業。ベンチャー投資しかないだろうと言っているくせに、成功を求めてくる風潮があり過ぎる。挑戦者は馬鹿を見る国だしね、もうそろそろ脱出しようかななんて思っちゃいますよ。若者が脱出しているのは当たり前な気がする。嘆かわしい。

お通夜日本

久し振りに新幹線に乗って、横浜線に乗って、中央線に乗った。新幹線は未だに空席があり、ゆったりとした雰囲気ではあったが、在来線においては満員で、マスク越しではあるが会話も多く、もう戻って来たなと感じる。コロナ禍が恐ろしいという雰囲気はなく、むしろこれから始まるインフルエンザ対策のためのマスクと捉えて、しばらくはマスクレスは無さそうだなと実感する。それはどうでもよろしいのだが、出掛けて行った先での出来事が問題。

我が国の得意技の「先送り」なんだけど、政府の税金バラマキ(赤字国債)に対して国民は大賛成の声を上げる。国の将来を憂う少数からの反対意見は当然の如くに消されていくわけだ。英国ではそれをやろうとした首相が倒されたというのにだ。これ以上国を沈めてどうするのだろう。国の産業が活性化して、それを海外に認めて頂き、日本の製造物が無ければ世界が成り立たない!と言う信頼を得ない限り事態は好転しないわけだが、アニメも最近では落ち目ですしね。

落ち目と言えば自動車一本足打法の産業。その本丸に乗り込んだらお通夜だったという・・う~ん、保守的と言うか、内向きと言うか解決力ゼロと言うか。今ある世界が全てであって、未来はどうあるべきかとか、バックキャスティング的思考がまるで無い。これこそ今の閉塞感であり、Z世代に受け入れられない企業体質だ。既に心停止してから時間が経過していて、AEDはもう効果が無い。そんな状況がこの産業にはあろう。今のところなんらかの仕事は有るのだが、それが何時まで続くか分からないけど、それは次の世代が何とかするだろうという雰囲気。

リーダーが挑戦しようとしない。それが日本の保守の王道ということだろう。新規を恐れ、真似することが出てくるまで待つ。他人が安定させたらそれを真似る。尖ったアイデアは排除する。挑戦と言う行動には総論も各論も全部反対。これでどうやってGDPを右肩上がりに出来るというのか。我が国のGDPの向上は、この30年、増税と国債発行によって一定値を保っているだけだから、その政策を止めたら、凄まじく減退するのは目に見えている。若い世代に負債を残していくならば、挑戦して失敗した経験を残しても良いのではないか。こうなったら駄目だよ、こうなる前に何とかしようねっていう。愚かなことだ。

インバウンド一本足打法

為替介入と言う国有財産の廃棄行為が続いて、真の日本の価値が解らなくなってしまっている。円がどんどん安くなっていくのは日本の実力そのものであって、世界中が日本は要らない国と認めているからだろう。それと旅行先としてはそれなりに楽しめるとか、そんな都合からだろう。インバウンドって言うけれど、気が付いたら日本中の土地が海外勢に買い占められていて、ネイティブ日本人は住むところがありませんみたいなことになりはしないか。

地方に出向けば昭和の景色が沢山残っていて、その時代の人間としてはそれなりに楽しめるわけだが、半分以上がシャッター状態の町並みなど、丸ごと買われてしまいそうだ。結局、それは何処に由来するのかなと、最近、企業の在り方をご相談いただいている方とのやり取りで思ったこと。要は新しい知恵を提案する気風を、企業そのものが持っていないということだ。新しいアイデアが現場で生まれたとしても、その知恵を価値判定できる仕組みが無いから、提案してもどうせ無駄だろうという方向に行くのだろう。

意識のDXが無い職場と言うことなのだが、知識ではなく知恵に価値認めない状況において、発展などあろうはずがない。発展の無いところに未来など無いわけだから、国力は低下し民度も落ちるであろう。すると極論だがシャッター街だ。YouTuberが何故稼げるかと言えば、そこに新しさがあり価値を認めるZ世代が居るからだ。企業もそこにある購買層を目当てに広告を打っていく。だからお金が還流する。広告を真剣に誰がどれだけ見ているかは別だが、広告とはそういうものだろうから、まぁ、良いのだろう。

上司と異なる意見を吐くと、すぐさま何処かに消えて行ってしまうとかね。会議中に突然退席させれてしまうとかね。そんな状況ではイノベーションなど決して発生しない。そして、時間も掛かるしね。成熟した社会だから、よほどのことが無い限り、前の製品を駆逐して、いつの間にか変わっているくらいのスピード感を上司が持たないと、新規事業など発生しようがない。世界に受け入れられる新しさと確からしさ。これを生み続ける教育の質的向上を愚直に続けて行く。それしかないわけですよ。教育にも研究にもお金を出さず「自助努力」だと言い、インバウンド命と言っている限り、この国は近々沈没だね。いや、もう沈んでいるか。

ロイロノート・スクール

GIGAスクール構想のお陰で、全国の小中学校に電子端末が生き渡ったのはついこの間で、今も、端末の不具合が凄まじいらしく、教育DXの地域格差は凄まじいらしい。それを言いたいわけでは無く、ロイロノート・スクールのお話。関係者のお話によると、これを上手に活用すると、授業のPDCAが劇的に進化し、児童自らの積極的な取り組みが発生している事例が多くみられるようになってきたとのこと。これこそがゆとり教育の意味では無かったのかと。改めて日本の電子化の全ての領域における遅れを残念に思う。

生まれた時から親がiPnoneなどを使っているのを見ていて、物心ついたらそれを当たり前のように活用し、小学校に上がった途端に自分達よりデジタル端末スキルが圧倒的に低い先生方に失望してしまう。このロイロノート・スクールが世界の電子教育ツールから見て、どれだけのポジションにあるのか分からないが、少なくとも自己流で黒板を端末化しただけの授業よりは良好な学習のアウトカムズを獲得できているとのこと。漸く、児童書君と同レベルのデジタル端末所持者が先生として出現したのだなと嬉しく思う。

今、小学校1,2年生でそれらが進みつつある現状を考えると、その諸君が大学に入学してくる迄に約12年を要するわけだ。その時までには大学も圧倒的なDXを実現していなければならない。窓口に行って担当者と1時間以上もやり取りしてなどのことは速やかに解消されなければならない。対面で無ければ何も出来ない、サービスとならないという化石的思考は捨て去らねばならないのだ。時代の進化は小学校1年生位の親御さんだとするならば、35歳位までの職員殿のアイデアをどんどんと採用し、実行していかねばならない。

新聞紙に習字の手習いをした小生の時代。タッチペンで筆表現が出来る現代。黒電話からスマホへの変化。そしてそれは更に劇的に開いていく。小生のような化石人はジャッジに留まり、新規事象の発案に口出しをしてはいけないとは思う。老婆心は公害であって、我が国の進化を確実に停めている。ロイロノート・スクールで学んだ子達が高校に進学する頃には、更に異なるツールでの学びの時代になっているだろう。そしてそれは加速していく。戦争なんかしている場合では無い。その筈だ。

大安

花嫁行列と言うものを本当に久しぶりに拝見した。お婿さんが共に居たから正確なところの花嫁行列では無いのだが、地味なお婿さんは目に入らないから、花嫁行列と言ってもあながち間違いではあるまい。初めて見たのはもう遥か昔。小学生の頃に従妹がお嫁入で行列をして、それを間近で拝見した。大変なことだなと真っ白な花嫁さんを思い出す。それ以来だからもう半世紀が過ぎている。それを再び拝見させて頂くことが出来て感謝している。

素晴らしいお土地柄だなと感じる。約1500年の歴史を誇り、立地を変えていないところが素晴らしい。門前には樹齢400年の銀杏が聳え、その対面にあかだ・くつわの江戸時代からのお菓子屋さんがあり、古来からの賑わいを感じさせてくれる。地元住人によれば、これこそが津島名物であると瞬時の断言が成されるほど。地元住人に愛される銘菓があるということが素晴らしい。味のほどは二の次である。歴史と愛され方が重要なのだ。

正午から行列が始まって手水を使い門を潜り、拝殿に入っていくところを神前の特等席で拝見した。自然、背筋が伸びて神聖な気持ちになるというところは、古い人間と言うことなのかもしれない。辺りを見渡せば七五三のお祝いに大勢が訪れていて、その中で厳かに雅楽が流れるというのも、日本人的でとても有難く参列させて頂いた。いろいろとあった間柄で、幸せになっておくんなさいなと、正直、それを思った次第。

来月入籍ですという地元民にも驚かされ、目出度いことが連鎖するなと、「持っている人」の集いに参加させて頂けて、これは大変にありがたく、これこそが大安吉日の意味であろうとしみじみと思った次第。お天気も良くぽかぽか陽気で上着が暑苦しくもあった。秋の良き日の、本当に楽しく目出度い時間を過ごさせて頂き、心機一転、また気合をいれて天下国家の為に頑張ろうと思った私であります。

挑戦しようよ

医科歯科大と東工大とか、大学内で医工学学科とか、いろんなところで「医」と「工」が表立ってくっついて来ましたな。世界では当たり前、日本では特別な事象という、まぁ、いつもながらの事なんだけどね。未だにオリンピックの賄賂事件や政治と宗教団体の連携の事柄で、国会が本来しなくても良い内容で時間を浪費しているのを見るにつけ、この国はある意味平和なのだなと実感する。いきなりミサイルが撃ち込まれて上陸されて、住民投票やられて「はい、今日からここは私のモノね」とやられるかもしれない時代にだ。

全く見方は変わるのだけど、東南海大地震がくるぞくるぞと延々と言われ続け、その間に神戸震災や東日本震災が発生したものだから、次こそはいよいよかなと思ったりもするのだが、自然が相手の物は誰のせいでも無く、諦めるしか無いものだから、ついつい忘れがちで、非常食糧の缶詰の賞味期限が圧倒的に過去になっていたりしても苦笑いで済むのだが、世界情勢を入手し得る情報から考えると、安穏と国会の審議時間を浪費するべきでは無かろうと思う。首相の見事な風見鶏ぶりを見ていても、バックの官僚殿の質もどうなのだろうと情けなくなる。

最初の医と工の連携に戻すけど、医療系機器はご存知の通り許認可制度にがんじがらめに縛られていて、それをクリアするだけでも気が遠くなる。各地の商工会議所には、関係企業からの天下りのコーディネータ氏がいらっしゃって、その方々のご機嫌を伺わないと話も聞いてくれない。動き出して市場に出せるまで最低でも5年は掛かるから、スタートアップで勝負しようなんて資金が続かないことが見えているから、余程の資金を集められる内容と認められないと、挑戦は困難である。既に海外で多くの知的財産を獲得されてしまっているということも挑戦の意欲を削ぐだろう。

この辺りのところこそ公的支援が必要なのだと考える。知財と言うことは「それが出来ることは既に証明されている」ということなのだから、それはパーツの如くに活用させて頂いて、避けるのではなく積極的に取り込んで、高速に事業として進めていくべきなのだ。知的財産に関する国の委員会などでは「中国が真似をする、防御出来ない」とかのお話が出てくるのだけれど、侵略者認定は良いが、市場はあちらが明らかに大きいのだ。対話による若者保護と鼓舞こそ国にしか出来ないことだ。挑戦こそ人生の価値である。そう思う。

新しい事しましょうよ

世界を見渡すと新しいコロナ株がどんどこ見つかっている。鎖国が解かれたわけだから、それらが蔓延するのに時間は掛からなかろう。世界中でマスクを外し、感染は自己責任常態であるから、我が国もいずれそうなっていくのだろう。国内におけるワクチン開発が活発になったとか、細菌センサが出来たとか、そんな都合の良いお話はとんと聞かれない。出来るものなら研究をしてみたいものだが、国内の最先端の皆様に期待するしかない。何か関われないかと、研究者諸氏は考えていらっしゃることだろう。その気持ちを失ったら、もう要らない人ということになる。

産業構造の転換と共に、不要となる部署が職場にある。これは何も人が要らなくなったわけでは無くて、AIやロボットによって、人間がやらなくて良い作業になったという事だ。そんな作業にしがみついていても仕方がないので、リカレントで自らに新たなスキルを身に着け、次の職を作るのが宜しい。その認定制度が日本にも細々とあるのだが、それを提供する学びの場を作り出したいなと言う色気はある。実際のところ動き出してはいるのだが、まだまだよちよち歩きだ。

全部、自前でという時代では無い。本屋に行って自学自習というのもありなのだが、リカレントやリスキリングの場を活用する事、それでもだめなら、アウトソーシングということになる。無理して所員を鬱にさせて、折角の能力をつぶしてしまっては元も子もない。とんでもない損失である。国の規制によって「駄目」ということも多いのだが、政治家の暢気さに国が鬱状態になってしまっている状況はいかんともしがたい。これなどは政治無関心の結果だったり、世界の帝王達が我儘勝手し放題という状況を見本にし出す若者の出現を生んだり。

新しい事を始めたら、2つの古い事を捨てなければならない。捨てるから新しくなれるのだ。新しくなる必要が無ければ、それはしなければ宜しい。伝統工芸に属する文化はそれで良い。もしも経済活動で、国の経済成長に寄与しようとするならば、新しく成りつづけなければならない。資源を見出し、それを活用する手法の開発でも良い。要は情熱であって、それは年齢には関係ない。それが無くなったら終わりということだろう。ゼロから数字を生み出し続けたい。それはそう思っているし、そんな人を応援したい。

マイクロフォン考

趣味のお話なのだが、俗に言うオーディオなんだけど、一時、クレデンザから出てくる音を録音して、BGM的に楽しんでいたことがあった。お気に入りのマイクロフォンはWestern Electric 639Aで、それをAltec PEERLESSのマイクトランス4722で受けて、そのまんま録音される素晴らしさにほれ込んでいた。クレデンザは素晴らしいのだが、蓄音機故に音量調整が出来ないから、深夜・早朝に動かすことが出来ず、また、お気に入りのSPレコードがすり減るのが嫌で、始めた趣味である。今も、時間があればやってみたいと思っている。

おたくが語るとこんなふうになってしまうのだが、今時のマイク&スピーカーと言えば、会議テーブルに鎮座するAIスピーカーであろう。卓の真ん中において、先方に伝送する音量も自動で調整し、アナログ音響ICの高速化に伴ってハウリング無く、煩わしいヘッドフォンなどは使わずに討論に集中できる優れモノだ。今、使っているものはMicrosoftが推奨する某機械だが、2年前に購入して、何故かマイク機能が使えなくなってしまった機械に比べ、再生される音の良さに驚いている。昨日、画面の向こうから、やたらと通りが良い声ですねと言われたので、マイクも優れモノという事なのだろう。

マイクってとても重要だと思っていて、先日、議事録お越しをさぼろうと、AIエンジンと合体して、文字起こしをやってくれる機械を入手したのだが、内蔵マイクに向かって独りで喋っている分には、驚くほど正確に文字起こしをしてくれることに感動したのだが、講演会場のような、反響が強い環境だと、誤変換が大きく、録音された情報と比べながら修正することとなる。これはどうでも良いのだが、自分の講演を文字お越ししたものをAIテキストマイニングを使って分析すると、伝えたかった文脈がちゃんと解析されて「あぁ、良かった」となった。AIが当たり前になってきたなと実感する。

話をマイクに戻すのだが、先述の639Aなどは、様々な場面で活用され、勿論、プロの歌手が「それでなければ録音しない」とまで拘る機械であり、それは小生も納得するところである。近代のマイクにおいてもそれなりのものを使うと、進化を感じることもあるのだが、人の声というか、音が風景となって記録されるレベル感でOutcomesとなってくれる為には、空間とマイクの研究って、最近、されていないのではと思ったりしてしまう。どれだけフィールドテストをしているのかなって。結局、外付のマイクを探すことになってしまう。オーディオ小僧の旅は終わりそうにない。