やりましょうよ

統計データによれば、時間当たり80mmを越える雨の日数が確実に増えているそうだ。その統計データ(N新聞とも言うが)の解釈に依れば温暖化の進行に伴って増えているという、顧客の恐怖をあおるマスコミらしい表現であったが、まぁ、そうなのかもしれないなとは思う。ヒマラヤやアルプスがあって、寒気が上空に蓄積しやすい地域ではゴルフボール大の雹が降って来て、凄まじい損害を出している。地上や海上からの上昇気流が強くなっているということを考えると、雹も含めて降水量が多くなっているということは、地表近くの気温が高くなってきたということなのだろうなと、そのくらいの解釈はしても良いのかもしれない。

日本の河川において、山から海までの距離が近く、降った雨は傾斜地を駆け降りることになるわけで、土砂災害の危険性が大きくなっているということなのだろう。事実、大河川の氾濫が毎年発生していると、ニュースを通じて感じるようになってきている。先日の台風の翌日に、近所の河川の近くに行くことがあったのだが、堰を囂々と激しい音を立てて流れゆく水を見て、その凄まじいエネルギーに感じ入った次第。

で、そのエネルギーを捨てているんですよ。河川にちょっかいを出せば水利権だのなんだのと、自然のものなのに誰かの所有物になっている恐ろしさ。水をどっかに持って行ってしまうわけでは無いのだから、超小型水力発電機を川に沈めて電力を得るのが良かろう。直ぐに「農業用水が土砂で埋まって、その処理が大変なんだ」みたいな声が聴こえてきそうだが、そんなものも含めて、新たに「どうしたらその面倒から解放されるのか」を真面目に学者も交えて議論すれば良かろう。そしてものを作れば良かろう。

「ああやっては駄目だ」というのは誰にでも出来る。どうやったら出来るのかを考える、政治家も含めた日本人が少なすぎるのでは無いか。組織のDXだって、いや、それは分かるのですが大変でと絶対に進まない。出来ないのはやらないからである。やろうとしないからである。誰かがやってからやろうなどと思うのであれば、もうその組織はいらないのだ。そう思っている。

お盆明け

何もしないでぼぉっとするわけではないので、休んでいた気になれなかったりする。休暇と言うか、休日と言うか、職場に出ていないだけというか、どこに境界線があるわけではないので、どこでも職場とも言える。考え事は尽きることが無いから、休んでいるという状況を作り出すのは極めて難しい。迎え火を炊き、送り火を炊く。お盆という日本人の風習を違えることは敢えてしないが、守ったからとて、何がどうなったのか?ご先祖があったればこその今であるのは間違いなかろう。

お盆が終われば次のお盆を待つだけだ。焚火で迎えられる側になっていなければのお話だが。仏教が日本に入ってきて、100年も経たない内に始まった行事だそうで、当時の宮廷でどんな状態で行われていたのかはわかりませんが、庶民の間でご先祖様と結びつくようになったのはどのあたりのことか?ちょこっとネットを紐解いてみても様々な説が繰り広げられて、何が真実かさっぱりわからないのですが、旧暦においても今頃の時期に行われているわけだから、お米の収穫の前の、集団的農業行事の前の、各戸で行われた行事っぽくは感じる。

小中学生にとっては、夏休みは残り2週間程度になってしまう頃であって、お盆休みで両親の実家などにお出かけして、家に戻ったら夏休みの少なさにハッとする時期であろう。ネチネチと宿題はやっつけるほうではあったから、焦って云々ということは無かった。最近は、とんでもない暑さの中、体を休めることに専念することが多くなってきた気がする。山にも行かず川にも行かず、温泉にも行かず。ひたすら、活字と戯れている、そんなつまらない時を送っている。

カレンダー的にはとっくに今年の後半戦に入っているわけだが、気分の問題だけなのだが、お盆が終わるとお正月までの後半戦に本格突入するなという気持ちになってくる。お盆期間中の、なんとなくだが、お正月とはかけ離れた気分から、一気に正月頭に切り替わる。この切り替えが面白い。まだまだ灼熱の毎日が続くわけだが、台風がどんどこやってくる時期になる。するとあっという間に秋になり正月になる。お盆と正月だけしか記憶にない。近年はそんな状況の暢気さである。

お盆休みにて

お盆休みが目の前にやって来た。どんなにあくせく活動している者であっても、旧式の日本人であれば先祖を思い、今ある命に先祖からのバトンを感じ、そして明日に対して襟を正す。毎年、それが行われることに大いなる意味があると思っている。夏休みというよりもお盆休みと言われるとしっくりくるのは、旧式の人間であるが故かと、若干、苦笑いではある。四月始まりの年度の一区切りと言う気もする。気候も厳しく、ここらあたりで骨休めをしておくほうが身のためだと、誰かが決めた風習なのかもしれない。

実際のところ、近年、この季節の気温は余りにも厳しく推移している。その昔、プールだの何だのと外出していた気はするのだが、35度を超える日など記憶に無い。30度を越えたら「凄い」と感じた記憶がある。それが今や、天気予報の画面上で37度の予報などが普通に現れる。太陽一の眞下ではあるまいしとは思うのだが、真下近くは暑いぞというのは、日本が冬のインドネシアで体験したが、それはそれは凄まじい暑さであった。その時の感触を思い出すほどの暑さを日本で体験できている。

コロナ禍の感染爆発も、第七波のピークを迎えるのかなと思ったりもしている。移動は激しく発生するだろうから、それなりの数字の推移はあるのだろうが、それによって集団免疫体制が整うのかなとも思っている。お盆中に生真面目な数字の羅列は、低下傾向に入っていくのだろうなと勝手に思っている。車での移動で、無症状の人員から、閉鎖空間での感染を巻き起こすかもしれないから、それだけは気を付けて頂きたいというところか。

いずれにせよ、お盆休みはそんなことで(どんなことだよ)ゆっくりとさせて頂くことになっている。例年、こんなことを言いながら忙しく立ち居振る舞ったりするのだが、今年に関しては過労困憊な状況を少しは緩和しようかななどと思っている。例によって気まぐれな戯言である。そんな気分である。

有機的?

有機物と無機物の違いは、自らとはことなる状態から栄養を得て、自らを増殖させることが出来るか出来ないかだと、小生の師匠からお聞きしたのは、もう35年以上も前のことだ。人間機械論の哲学とか学んだ後でお聞きしたので、有機的という単語は極めて難しいものだなと思ったことを、今も鮮明に覚えている。一生、使えないなとも思った。ネットなどで情報を検索させて頂くと、さも、簡単なように語って頂けるわけだが、それぞれが密接にかかわっているとかね。

そもそも論、哲学的な単語であって、神が与えた生命を形作るそれぞれの部位は、人間という一つの形を構成する一つの要素なのだが、それぞれが相補的にありながら、ここには主体的に動いているように見える。しかし、その活動は、全ての部位が連携しあって、複雑に関係しあっているのだということなんだけどね、小生は、実はその解釈において気に入らないことがあるから、有機的という単語は使うものではないなと思っている。師匠もそうお考えだったのではと思っている。

組織とか約束事とかが有機的に関わりあってとか、有機的に事業を展開しとか言われてしまうと、何か決まった形を達成することがゴールか?とか思ってしまうのだ。複雑に関係しあってということを言いたいのかもしれないが、どのように影響を及ぼしあっているのかを関数的に示すことが出来ない己の無能さを、哲学者を気取って有機的という単語に逃げ込む姑息さに吐き気がする。無意識に使ってしまったのなら仕方がないが、凡人が使ってよい単語ではない。

戯言の癖に単語の意味云々を語るなかれとおっしゃるかもしれないが、その辺りはかなりこだわっている部分でもある。「何が問題か分からない」などと軽く逃げる国民の代表殿とはちょっと異なる。もしも師匠から有機と無機のお話を頂戴していなければ、ここまで「有機的」になんとかというフレーズにかみつきはしなかったとは思うのだが、今までに無い価値を社会に届けさせて頂きたいと思っているということなのだけれどね。類推される有機ではなく、あっと驚く無機。そんなところかな。

8月に思う

歳を重ねるごとに、何と呼んだら良いのか分からなくなる原爆が投下された日が過ぎ、もう一発が投下された日が直ぐにやってくる。質量はエネルギーに転換される。その莫大なエネルギー発生こそ、ビッグバンの瞬間直後に蓄えられたエネルギーの開放であり、可能性があるならば、それを確認したくなる学者の性が、当時にしてはとんでもない数の殺戮に繋がった。政治の道具に使われ続け、今も世界の不可思議なバランスの支点にある。その支点が吹っ飛んだならば、地球は原始生命体の時代に戻るのであろう。43億年をやりなおすことになるのかもしれない。

様々な研究と発見があり、今の地球上の生命の根源は、最初の宇宙から飛来した隕石からやってきたことが分かってきて、地球上の生命だけが生命ではないことが証明されつつある。いずれ太陽は膨張し、地球も吸収されて消失するわけで、SDGsとか叫んでいるならば、判りきっている現状地球と勝手に読んでいる星から遺伝子を脱出させて、別の星で活動することを考えねばならない。ひょっとするとすでにやられているのかもしれないけどね。精子・卵子の冷凍保存が進んでいるが、その準備なのかもしれないと思ったりしている。

月に移住とか言っているわけだが、そこで大型ロケットを建造して離陸すれば重力による制限は1/6になるわけだから、それはかなりの優位性がある。宗教団体から献金を受けて政治がどうのこうのとか、モリカケ云々など、まともな裁きが出来ない国家など、もう国家の体を成していないわけで、親方がどうのこうのと言うことに従順である必要がどこまであるかも分からず、さりとて、ルールはルールなので、その中で最大限、隅っこで思考を繰り広げなければならない。

大国が面積に飽き足らず、領土拡大に取り組み始め、遥か西のほうで殺戮が始まったと思ったら、隣の大国も同じことを始めた。科学技術は軍事で非連続に進化するわけだが、研究の成果が殺戮の道具の機能向上に繋がっていくということが、我が国においても諸外国と同様に推し進められようとしている。地球に存在している資源と呼ばれるものを掘り起こし、それを破壊の為に使い続けてゴミにしていく。科学者が頑張るとゴミが増える。もうちょっとインテリジェントにならないものか。8月になるたびに思う。

代行業

不便がかっこいいとか、我慢を強いられる毎日に耐えようとか、そんなことは全く思わない。思う必要も無いのであろう。頭上からミサイルが降ってくるような状況にならなければ、そういうことなのだと思う。それを悪逆非道に実行した為政者を、世界は何にも出来ないのだなと言う、まぁ、情報操作によって創り出される世界と言うのは、そんな一面もあるのだろうと、仮想空間世界を楽しめる世代の皆様は考えて頂きたい。と、そんな大仰なことは戯言には似合わない。

地方の限界集落に移り住んで共同生活を営みながら、地域コミュニティと一体となって、ビジネスを興し、税金を生み出す若者のニュースを拝見するに、なんと素晴らしい事かと思ったりする。マスプロダクションの中に取り込まれず、最大限の個の希望を満たしながら、最小限のモノで生きていく様こそ、地球と共存する一歩なのかもしれないと思う。しかし、ネットワークが必要だ、パソコンが必要だと言われてしまうと、それを開発・製造するまでにどれだけのエネルギーが必要なのだろうと、地球資源消耗型生活なのだなと、改めて考えてしまう。

なんか、最近、毎週、断捨離と言う単語を吐いている気がするのだが、ゴミ袋を前に断捨離を続ける日々だからしょうがないのだが、ふと、「これを小生のライフスタイル、価値観を知らない人に代行して頂けたら、全てが無くなって気持ちが良さそうだ」などと、後で後悔すること間違いなしの方法を思いついたりして。流石にそこまではしないのだけれど、例えばAI掃除機の導入って「お掃除代行業者の導入」だなと思った次第。床に置くものが無くなると、いの一番に導入したくなるのがAI掃除機というのは解る気がする。個の時間獲得という点における一つの解だ。

と思って、ライフスタイルの中に「代行」ってどれだけあるのかなと思うと、自分のロードの代行がビジネスになっていることに気が付く。「お惣菜コーナー」などは調理代行業だし、自分では出来ないものづくり、ことづくりをやって頂いているものって、そのサービスにお金を支払うという点において、全て代行業である。時間の獲得だけでは無く、自分のことづくりにおいても、例えば山道具などにおいては、必死になって山に登ってそれを使わせるという苦行の代行サービスだ。そんなものを人間は欲するのだから愉快である。まだまだビジネスの種は創造出来るなと、妙に納得した私であります。

ビジュアル

ビジョンはいわゆる「ビジュアル」として鮮明に共有されなければならない。これはこの30年間、ずっと言い続けてきたのだが、我が国においてお企業様のビジョンがビジュアルとして想起された事例は極めて少ない。特に小生の感性がしょぼいからということもあろうが、社名を隠したら日本中、どこの会社でも一緒みたいなのが並んでる。ビジョンからのバックキャスティングなんて当たり前に言われる世の中だが、要するに、向かうところは一緒ということなんですかね、日本企業様。

テキストから高解像度画像を生み出すAIエンジンが開発されたということに、久し振りに感動した。芥川賞作品を小分けに絵にさせて行ったら、漫画としてその作品を読めるということですよね。知能レベルが下がると言う石頭さんはほったらかして、自分のイメージとAIが描くイメージとの差分を楽しむのも「いとおかし」ではなかいか。これからどんどん発展を遂げるのであろうから、台本を書いて動画配信が出来るなんて時代がもう来ているのかもしれない。

何が言いたいかと言えば、会話の中で「あんた、要するに何が言いたいの?」なんてことが会議の最中にありますよね。自分の専門の単語の世界に逃げて行って、他を見下して排斥するみたいなの。お互いの表現がいかに低レベルかという競争になってしまうかもしれないけれど、自らの思考を自らの視覚で確認できるというのは、本当に素晴らしい時代がやってきたなと、AIの進化に久し振りに感激した。その分野の皆様には「当たり前じゃん」となるのだろうが、それはそれ、専門分野なんてそんなもんだ。

で、最初に戻るんだけど、企業様の「ビジョン」を絵にしてホームページのトップに並べて頂きたいですよ。「素材で世界トップを目指す」なんてことをビジョンに描いているおたんこなすな企業様が多い我が国だと、AIが漆黒一色の絵を吐き出したりしてね。ビジョンの意味が少しは広がっていくかなと期待してしまう。「もっと定量的でないと伝わらない!」とか仰る皆様にもそれを見て頂きたいですな。行き先が一ヵ所だけか?って、それはビジョンじゃない、思考力低下証明書だ。早く一般に活用させて頂けるようにならないものか。携帯のアプリにならないものか?もうなっているのか?待ち遠しい。

選択の時

こう暑いと、13時~15時の間で、外に出たいという気力が無くなる。そんな時間帯にご来客頂くことも申し訳ないなと思う次第。だから全てWebで良いのだと思うのですよ。わざわざお越しを頂かなくても良いのにと思うのだ。何かのついでで、そこまで来たからねということなのかもしれないけれど、小生的には呼ばれても何処にも行かないからと、Web会議を推奨させて頂いている。出不精になったわけではないのだが、このコロナ禍の中でもあり、基本、不対面が宜しい。

少子高齢化と言われ始めたのは随分前だ。全人口に占める14歳以下人口の割合は、この38年間に及んで減り続けているわけだが、これは少子化のベクトルである。高齢化の方は、同様に、全人口に占める65歳以上人口が7%以上の状況を示すということが定義づけられているが、現状は28.4%で、これは高齢化率が21%以上ということで、お役所的に超高齢化社会と呼ぶのだそうだ。出生率が減って、医療が進んで寿命が延びれば、必然、少子高齢化社会に突入する。

日本は世界に先駆けてそうなっているわけだけど、国のトップ殿が旗を振る機関において、その問題を解決するには、大学が必死になって教育機関としての役割を果たせ!と仰るわけだ。国内市場は自動的にシュリンクしていくわけだから、それを乗り越えていくためには、生産人口を増やして、海外に市場を求めるしか無いわけだな。GDPを減らさず、消費市場を拡大させろということを言いやすいところに言ってきたなと感じてしまうのだ。

新聞を開けばAI活用等、デジタルは当たり前なのだけれど、グリーン等の成長分野への教育組織の再編、そして統合を成すべきで、それが出来ないところはご退場願うという、まぁ、統廃合あり気の天の声が、いよいよもって声高らかになってきたなと感じるのだ。挑戦するなら金を出すが、いずれにせよ統合が前提となっていたりするところが気持ち悪い。大きい荷車は、同時に多くの荷物を運べるかもしれないが、牽引には金がかかるし大騒動だ。小回りの良さを活かすところは沢山ある。あるのだが、取捨選択が必要となる場合がある。これからはそんな時代である。挑戦である。

工の文字

工業の工の文字は、天と地を繋ぐ文字だと時々聞く。恐らく、どこぞの秀才が神様の知恵を地上の人が使えるようにするのが工学だなどと仰ったのを、いろんな方が自らの言葉に変換されて、それを伝え聞いているだけなのだろうと思っている。今の道具をより便利にするというところで、通信速度が速くなったり、自動車が自動運転になったりと新しいよう見えるのだが、その実、正常進化に外ならず、全く新しいものになっているわけではない。新しい知恵は必要なのだが、ツールの重ね合わせ、組み合わせ、ブラッシュアップに他ならない。

Web診療とかね、今まで無かった理由が、診療報酬の問題だとか規制の問題だとかね、そんなことが極めて多いわけだ。それとても問診が遠隔で出来るようになったというだけで、新しい事が発生しているわけではない。一体、どこに圧倒的に新しいものが生まれてきているのかと考えてみると、それは殆ど無いことに気が付く。気が付くというか、必死に断捨離をして、過去に入手した物品を捨てまくっている状況を考えてみれば解る。残っているのは梅干しを干す巨大なざるとかね、年に数回は必ず使うという代物だ。

本当に良いものを選んで購入していく。そんな意識になったのはそれ程古い事では無い。それでも、学生時代に数万円のビタクラフトの鍋を購入して、40年も使っている。そんな買い物だけをしていたら、身の回りってこんなにごちゃごちゃしていなかったはずなのになと思うのだ。最近は書籍やお酒、つまみ以外に何かを買ったかと言われると、殆ど何も無いのだ。電子機器が故障して、修理に出すより買った方が安かったり高機能になっていたりで買い替えることはあるが、それも年に1度、あるか無いかのレベルである。

脱炭素とか言っているわけだが、千人規模お会社で、雇用を守ろうと思ったら、何かを作り続けるしか無いのだ。年商数百億円を維持しようと思うと、市場に送り出している部品が生み出す人の笑顔などを思い浮かべている暇はない。とすると、工の字の意味が、親企業から降ってくるお金に飛びつく経営者の意味に見えてくる。何を創るのだろう。本当に新しいモノとは何か?皆さんが健康で平和な暮らしが出来ているとすると、工学は何を作り社会に驚きと感動をお届けすれば良いのか。全く新しいカテゴリ。見出してみたい。そう思う。

EV考

先週の土曜日辺りから、真面目な夏がやってきた。過激な暑さで、表に出るのが危険と感じるほどだ。本格的な梅雨明けというところなのであろう。熱中症にご注意といったところだ。日本ばっかりが第7波の報道を精緻に行っているせいか、数字ばかりが先行する。諸外国においては、ノーマスクでの経済活動を優先するために、間引きカウントになっているらしく、まぁ、世界中で似たような数字なんだろうなと思っている。海外にお仕事やレジャーで戻ってこられた方々が、軒並み感染されて、国内に広めていることからも想像がつく。

高熱が出て、咳が止まらず、声が出なくなる。そんな知人に出会うと(Web会議でだが)やっぱり感染は避けたいと思うわけだ。ヨーロッパ諸国ではPCR検査なんか終わっているらしいし、日本だけが懸命に検査して、報道して、様々な規制を続けるわけだが、こうなってくると、どんな行動が正しいのだろうと、謎になってくる。往来でマスクをしない人が増えてきているのは、なんとなくだが良い傾向だなとは思うのだ。この暑さの中で人気が少ないところでマスクをしているのは極めて息苦しく、耐え難い。

政府的にも漸くインフルエンザ並みの扱いにするとかしないとかの議論を始めたそうで、大騒動もいよいよ収束するのかなと、嬉しいやら恐ろしいやら。5日ほどの高熱で済みますよということなのだが、そんなに長いこと寝ていられる身分でもなく、やはり警戒していきたいとは思っている。集団免疫の獲得とかいうお話があったわけだが、あれはいったい、何だったのだろう。ピークがやってきて下がり始めると、次の「型」が現れて、再び免疫はご破算になるということなのだが、流石数億年の大先輩だけあって、700万年の歴史の人類ごときが対抗できるものではない。

病に関しては謙虚が一番だと正直そう思っている。勝てる代物ではないのだ。病で寝込んだ記憶が無くなっているが、寝込まないに越したことは無い。適度な運動と睡眠という、まぁ、後者は無理だが、普通の健康状態であることが当たり前になっているわけだが、自転車通勤でマスクをしていると、喉の調子がすこぶる良いことから、自動車の煤煙のほうがよっぽど健康人体に悪影響を及ぼしていそうだ。コロナ禍でマスクをしての自転車走行が当たり前になり、それは良かったことだなと思っている。悪いことばかりではないというか、電気自動車になると排気ガスによる健康被害が減るとするならば、地球温暖化よりも健康被害の観点から電気自動車の世の中になってくれないかなと思う、私でありまます。