トランジション・ファイナンス

省エネルギー技術開発というか、技術の省エネルギー化というか、そんなものが延々と続けられている。がきんちょの頃に「太陽電池でエネルギー問題解決!」みたいなテレビニュースを拝見して、ガマの油売りエリアに行ってみたら、ムーンライト計画真っ盛りで、その後、ニューサンシャイン計画ということで様々な技術開発が行われ、世界に向けて日本の省エネルギー技術が輸出されている。勿論現在も、後継開発は続いていて、単なる省エネだけではなく、脱炭素省エネという「脱炭素」の比重が大きくなった省エネルギー開発が進められている。

日本の省エネルギー技術って凄まじくて、乾いたちり紙から水を滴らせる魔法の技術である。「まだそんな処に省エネ出来るエネルギーがあったの?」と思ってしまう技術が、魔法の如くに提案されてくる。様々に進化した技術を投入し続けるから実現しているわけで、昨日までのブラッシュアップでは成し得ない、ジャンプアップ・トランジションを伴う開発である。するとそこには当然の事ながら、ファイナンスが必要となって来て、これが我が国のしょぼいところだ。

2050年までの脱炭素ロードマップを読んだことの無い国民は存在していないわけだが、大学関係者は教職員、学生も含めてEVにしろとかね、そんな人的依存性のところまで踏み込んだロードマップを強制化してこないと、とてもではないが達成できないだろう。この虎んじっションには間違いなくファイナンスが必要であるのだが、どのような省エネ技術に企業が取り組めば、それはサステナブルに事業展開可能であると、事業性から見た脱炭素を考えねばならぬ。経産省ではトランジション・ファイナンスとして進めているわけだが、「挑戦」への投資というのが最も苦手な日本において、なかなかうまくいっていないというのが現状であろう。

今ある技術から取り組むというのが出発点である。新規開発を待っていたら、地球沸騰化から蒸発化に進展してしまう。それを抑えつつ、新規技術開発にものづくり企業は取り組んで頂きたいわけだが、そこにはトランジション・ファイナンスが必ずや必要となる。コロナ禍でのばらまきではなく、挑戦に対する評価の閾値をちょっと下げて、挑戦できる国へのトランジションも見たいものだ。経済の活性なのないところに脱炭素など考えようが無い。広い道路ががらんがらんの日が来ないかなと、生きている内は無理かなと思ったりしている私であります。

再生音楽

ノーミュージック、ノーライフである。ウィークデーでそんな時間を確保できないから、日曜日はどうしてもBGM三昧(それほどでもないか?)となってしまう。音源をSPに求めてしまうとBGMにならないから、電気オーディオに走るわけだ。LPも、お仕事に熱中していると、いつの間にかアームセンター状態で悲しいことになっているからデジタル音源に頼るようになってしまう。しかしながら、ダイレクトにパワーアンプに接続しては愉しめない。BGMであっても、音楽でなければならない。

イヤホン、ヘッドフォンによって聞こえてくる音楽が全く異なることは周知の事実である。同じだよと言う方とは未来永劫、友達になれないからしらんぷりだが、1925年の、正式なオルソフォニック再生の道を切り開いたビクターやウエスタンエレクトリック社の皆様に感謝するわけだが、現状のオーディオ回路の思想は、デジタルになろうが変わっていないところに、人の聴覚はアナログなのだなと言う原理の変化の無さに安心するのだ。

しかし、そのアナログ故に、鼓膜の内外の在り様によって、心地よく感じるトーンズがまるで違っているから、音源づくりのエンジニア殿は永遠に答えのない旅路を行くのだなと、世界平和が永遠に到達できないのと同様に、そこそこのところで「いきついた」と納得しないととんでもない事になるのがミュージックライフである。小生が電気オーディオにおいて、音源を迎えるにあたりMcintosh C8を入り口として、WE555WとALTEC604Bを出口としていることはもうばれているから隠しはしないが、カップリングコンデンサがへたって来たとかね、部品交換とともに愉しんでいる。

この部品一つ交換することも極めて恐怖を感じるのだ。電気回路要素の数字を守ることと、音を紡いでいくということはまるで違う。信頼の出来るオーディオハウスから入れて頂くわけだけど、移植手術の後に「えっ?」ということも度々あった。30年以上も付き合っていると、部品を流れる音響振動まで見えてくる。趣味なのだろう。音楽と言う深淵に引き込まれた哀れな人生なのかもしれないが、音に興味がない幸せには戻れないから、これからも続いていく、再生音楽の楽しみである。ほっといて頂戴!

そんなもんじゃない

年収の壁云々が叫ばれ、健康保険だとかなんだとか、結局、ダイバーシティ環境構築など、政治家の頭には無いのだ。そんなもん、撤廃してしまえば良い。しかしながら、助成だの、2年まで扶養だの、全く持って意味不明である。全ての人が平等に全力を尽くして、自らに納得できる働きが出来る環境がある国になるのは、未来永劫無いのではないか?結局のところ、国民が変わらないと政治は変わらないしね。むしろ遠ざかっているように感じる。

一滴の水もお前にはやらない!という中部山岳地方をめぐる争いは、武田・今川の戦いを見るようで、何とも切ない争いである。当事者にしてみれば、自分にとって何の利益にならないことをやらさないということは理解できる。理解できるが、バーターで地元の飛行場に線路引いて、永遠にその保守費用を持たせようという政治家の厭らしさを垣間見る。地方行政ってそんなものなのかなと、政治家なんぞにならなくて(なれないけど)本当に良かったと思うわけだ。

税収が無くても国債をじゃぶじゃぶ発行して、それを発行元が買い上げて現金を市場に還流していく。そして金利はゼロのままで円安を加速させる。子供銀行か?懐かしい銀行ごっこである。どうも大人が不在の政治に見える。もっと地道で泥臭い世界ではなかったのか。一部の強力な取り巻きの顔色を見て、大局を見ない。自分が気に入らないから認めないでは、天下国家は民の為に動いていくまい。

その昔、山奥の身内が村政に立ち上がったが、結局は呑ませてくれたビールの量で得票数が変わるような世界であった。それは今も変わらない。仲良しこよしでみんなで政治を創り上げようという綺麗な心は大切だが、トップは誰かを切るような、最も辛いところに身を置いて、その責務は自らにあると腹をくくり続けないといけない立場だ。そしてスピード勝負だ。朝令暮改が二度も三度もある親会社との戦いに皆で仲良くでは、レミングの集団入水である。そうはさせない。

スマート

ちょっとしたことで、久し振りに多摩川べりに出掛けてみた。かなり久し振りで、景色が一変していたことに、流石に都会だなと思った次第。TVでは知ってはいたものの、電車の接続も、本数もやたらと増えていて、これは便利度が猛烈に上がっていて、感激した。当たり前なのだけれど、受益者が増えるサービスは実行され、そうでないものは淘汰されていく。それを実感できるのが東京、神奈川だなと体感させて頂いた。

新しいモノだけに驚かされるのではなく、新しいものが出てくると、近場の旧態依然までが変化していく。その変化を恐れず、挑戦するところも都会だなと感じる。破壊的イノベーションという言葉を、こんなところに使って良いのか疑問ではあるが、駅からのアプローチの庇に取り付けられたスピーカーから、クラシック音楽がほのかに聞こえてきたことには驚いた。ここまでおしゃれに変えていくのか。街全体が変化を楽しんでいるように思え、これから立ち向かう苦難も、なんだか少し和らいだ気がした。

組織的な変革にも挑戦されていて、そのことを申し上げたら「流石に古すぎて何とかしよう」「でも何をどうしたら良いのだ」というところから始めましたとの事。確かに、新しいシステムを活用させて頂いたのだが、ベテランの方々も「なんだこれ?」となっていて、事務方は右往左往なのだが、それを何とも思わず、寄り添ってなんとかしようとされていたのは流石と感じた。これも都会人のスマートさだなと思うのだ。一つの不便が将来において圧倒的利便性を生むと信じて変化を受け入れる。スマートとはこういうものだろう。

新幹線の混雑は凄まじく、16号車に座席を取ったのは何年ぶりだろうか。見事な混雑で、コロナ・インフルが恐ろしくなる。田舎者であるから、マスクは外すことなく、ひたすら身の安全を確保するわけだ。お話を伺ってみると、既に2度もコロナ禍に罹患されたとか、回数を重ねても悲惨さは変わらないとか、そんなお話を聞かされた後だから、猶更であった。駅のホームに降り、16号車迄の長い長い距離を、人をよけながら歩き「この長大さだけは変わらないな」と、これはガキの頃からの憧れであるから、400mの車両長は変わって欲しく無いなと、やっぱりこれもスマートだよなとにやついた私であります。

破壊的イノベーション

破壊的イノベーションは必ず発生する。CHAT GPTは一つ、そうだと思う。既にかなりの文章を作れるようになってきている。極端な話、それを使えることが条件の秘書の募集がお江戸では始まっているとの事。まぁ、それはそうでしょうね。ものづくりの世界においては、EVの常態化ということがあろう。燃料タンク製造企業殿におかれては、圧倒的、マスのシーズがあったわけで、それなりの規模、それなりの人員確保が必要であったわけだが、それが突如として「要らないよ」と言われるわけだ。そうなると、それに必要な研究者も要らないよということになる。

産業構造が変わればプレーヤーの退場も有り得るわけで、正に破壊的イノベーションの教科書通りである。本当の理想はどういう状態ということから考えれば、当然の状況なのだが、我が国においては票と企業の生き残りのバーター状態であるから、本来、破壊されて居るべき商材製造を継続させることに補助金が出てしまう。それは結局税金なわけで、国民が望みもしないところにどんどんとお金を投入してきているわけだ。国そのものを破壊しているわけだ。

こんなことはもう全てお断りさせて頂くので敢えて独り言を言ってみるが、百万年前に開発が終わった商材を、あんたの顔で某社にねじこんでくれというご依頼を頂いたが、丁重にお断りをさせて頂いた。嫌なご相談である。浪花節の小生であることを良い事にぐいぐいとねじ込んでくるわけだ。破壊された領域にこれから参入したいとはどんな了見だ。銀行がいよいよ融資をしなくなったから、あとはつてを頼ってというか、圧力を掛ければ何とかなるだろうということなのだろうが、今のご時世、そうはいかない。

未来教育創造会議というものがあって、常にトレースしていないと「もう、やる気ないのね?」とあっという間に予算断絶、廃校に追い込まれる。教育機関としてアウトカムズはどのようなものかを常に思考して、それを先取りしていかねばならぬ。大昔の業績を持ってきて、私は凄いのだ、ひれ伏せ!と言われてもピントがボケて全く伝わらない。哀しい現実ではあるが、日本中で繰り広げられているようで恐ろしい。

刃物屋さん

刃物屋さんとお付き合いをさせて頂いて、強烈に感じるのが「刃物屋さんの努力は、そのユーザーに全く評価されない」ということ。中間に入っている厭らしい連中が上前を撥ねることはあるのだが、刃物ユーザーからは文句しか跳ね返ってこない。もっと長持ちさせろという言葉しか返ってこない。当たり前なのだけれど、ユーザーは刃物交換の仕掛回数を減らして、Tier上位に納品する最終形状物の価格同一、工賃低下を目指すだけだから。

「ばり」が出ないとかね、工程を減らす工夫をしたとしても、そんなことは上位企業には評価されないから、結局、刃物屋さんをいじめることになる。これで良いのか?モノづくりはこれで本当に良いのか?弘法筆を選ばずとは、目の前に並んだ筆が当代随一の筆ばっかりだから、目の前でささっとしたためるその美しき文字が、どんな筆でもそれを成し遂げるかの如くに思ってしまうのだが、弘法さんほど、筆の目利きは居なかったそうな。道具を大切にする考え方がここにあるだろう。

弘法さんに使って頂ければ筆屋さんは喜ぶだろうが、その分、名声を得て、その工房の筆は高価になり、その技術を落とすことなく、高めることに向かったであろう。刃物屋さんも同様であって、より切れてより長持ちする方向に向かうわけだが、それは「切られるワークが市場で活用される時に、例えば、車軸が折れない」だとか、当たり前の安全を届けたいからだ。加工屋さんの喜びが、ワーク一個当たりの利益の向上にしか無いことを望んでいるわけでは無いのだ。

ヘアサロンの皆様は、より高価な鋏を求めるという。勿論、駆け出しからそんなことはないのだが、より切れる刃物を手にすると、もう後には戻れない。それで技術が高まると更に良い刃物を求めていく。それによって刃物屋さんの技能も高まり、刃物の材料や砥石も進化していく。モノづくりの輪廻とはそいう言うものだろう。中国に出掛けて行って「身の丈を知れ」と叱責された政治家がいるが、我が国の力はそこまで地に堕ちているということだ。一つ一つ、丁寧なモノづくりは、人づくりからである。それを願うばかりである。

聴いてるかい?

定量的で限定的な話は伝わりやすい。あれもこれもと詰め込もうとすると、焦点がぼけて伝わらなくなる。国の大きなファンドに対して、巨大な文章と巨大なプレゼンを要求するわけだが、余りにも大き過ぎて絞り切れなくなってしまうのだが、それを思い切って絞ることで「成程ね、これをやりたいのね」となってくる。これは実に愉快であって、主張を認めて頂いた時の爽快感たるや。勿論、その後で襲い掛かってくる責任は凄いのだが。もの凄い責任を背負うくらいが丁度良い。

とある政治家殿の主張を聞く機会があったのだが、これがまぁ、如何に聞き手に的を絞らせないかを真剣に考察したプレゼンになっていて、こりゃぁ、票は集まらんだろうなと感じた次第。どの政党に属しているかなどはどうでもよく、有権者としての自分と価値観がマッチしていて、思考する方向性における過去の経験値を見せてくれて、政治だから、未来をこうしていていきたいという夢を力強く語って頂ければ良いわけだが、それが何も伝わってこないわけだ。

今更、与党の政策の批判をしても仕方が無いわけで、何しろ、投票者数の過半数を持っているわけだから、その考えが日本人の思考ということになるわな。じわじわと進む円安に、相対的な給与所得の低下。店舗商売などでは原料費も賄えまい。しかしそれは国民が選択した方向性なのだから、そこにどうのこうの言っても無意味だ。強い意志と信念によって、今を駆け抜けるしか無いのだ。経済的頑張りしか取り柄の無い日本だったのだが、どうも、それも凋落の一途だ。

小学生の弁論など、極めて全うであるのだが、年を重ねると寂しいことになるのは何故だろう。結局のところ、寂しい大人の人達が、置き去りになることが恐ろしくて、若者の芽を食いつぶすことに専念するわけだから、これからどう頑張ろうなんて意欲もわいてこなくなるだろう。思い切れない政治体制。大きくなり過ぎた組織の行きつく先なのだが、先ずは若者に言っておきたい。人の話を定量的に聴く能力を養うこと。腹を立てる前に、この人は何故、こんな目的を抱いてこんな話をするのか?そこからである。

捏造

論文に掲載されたデータが捏造であったという。800回を超えるそうで、こうなると中毒だなとあきれ返ってしまう。近年、査読がどんどん厳しくなってきているが、このような科学者が自らの首を絞める行動はあってはならないのは当然である。データは生データが良くて、三点平均とか、いろんなデータ処理を学生実験の頃は教わったのだが、研究室に入ったら「禁止」で終わってしまった。要するに捏造なのである。学生実験までは捏造で指導して、いよいよとなると「それは駄目だった」と言われるのは、まぁ、40年も前だからどうしようもないけれど、禁止して頂けて良かったと思っている。

図抜けた論文に掲載しないと解雇されるような状況を突きつけるのもどうかと思う。加速器を使ったラザフォード後方散乱測定などは、そもそも論で、40MeVに加速された酸素原子核と他の原子核との衝突なんて、そうそう発生するものではないから、じっと我慢の測定になる。すると気が付けば二晩徹夜なんて当たり前になるわけで、それでもノイズの少ない信号に慣れてくると頑張れるし、そこから得られる情報の素晴らしさに感動すると、それが良い中毒となる。捏造者はそれを知ることは無いだろう。

分野によっては「これが出来たら凄い」ということがあるのだろう。理解される範囲で喝采されるとかね。研究者の現状を考えると砂丘の中の一つの砂粒なんだろうなと思ったりする。近代の計測機器のノイズカット処理機能は凄まじいから、何が真実か分からなくなてしまうのではないか。小生的には目視が一番正しくて、光学顕微鏡までは正しいだろうと思う。それを超えて電子なんとかとなってくると、既に計算機処理された画像になってきて、見えているものが真実かどうか怪しくなってくる。

更に測定対象から飛び出してきた電子の状態などに至っては、本当に見たいところから出てきているのか?見たい表面の構造なのか?怪しい事この上ない。標準と信じられるシリコン単結晶とかね、それから正しそうな信号が得られたら、その機械は正しそうとなるのだが、それは本当にそうかと常に疑わねばならぬ。学術雑誌の面白さはそこに真実があると信じているからなのだが、実は捏造だったよと言われてしまうと、もう何も信じられなくなる。捏造するより引退して他のお仕事を探すのが良かったのに。まぁ、人の噂もね、捏造されるけどね。残念である。

コンプライアンス

法令遵守だけでなく、倫理観、公序良俗などの社会的な規範に従い、公正・公平に業務をおこなうことが現代において、企業・組織に求められるコンプライアンスである。その範囲は極めて広範囲ではあるが、社会的な規範に従いというところが微妙であるのだが、安全サイドに振っていくことに自然となっていく。エイジハラスメントも踏みやすい地雷だが、戯言では旧態依然で人の意見を聴く気が無い高齢者、全くやる気の無い若年者には指摘はするが、年齢では無く後段の内容で語っている。

女性だ、男性だ、ダイバーシティだという声も今においても大きいわけだが、性差別など無いのは当たり前であって、それを振りかざすのはハラスメントだろう。縄文の昔、腕力のある者が獲物を刈り取り、率先して植林、開墾をして、ひとりでにリーダーに祭り上げられたのが男性だったのだろう。10世紀以上も続いた文明であって、数世紀で戦争やいがみ合いばかりしている現代人よりもずっと倫理観、公序良俗意識が共通認識であったのではないか?

社会の複雑性という事もあるのでしょうけれど、発掘された町と墓の在り方とか、その関係性を学ぶにつけ、争いよりも討論だよなと思うのだ。ただ、100を遥かに超える国家があり、自然環境が異なり、思想、宗教も異なる国家が一つの星を生きる糧としているわけで、極めて複雑な関係であるのは間違いなかろう。その中のダイバーシティだと思うけど、日本においては、先ずは、男女共生・共創社会からということなんでしょうね。なんだか当たり前のことを必死にならないと出来ないって、どうなんでしょうね。

懸命に頑張って毎日を生き抜いているわけだが、それでもちっとも課題解決にならない。課題設定を成したとしても、少し上に上げると「新しい事はやりたくない」と紛争状態になる。お上が推奨しても現場は馬耳東風。ステークホルダを自分に置いて、自律機能を他者に活用して頂こうなどとは思わない。社会全体の発展など考えない。自分にとって利益があれば賛同し、そうでなければ反対する。それがコンプライアンスか?コンプライアンスと言うと組織のリーダーにだけ押し付けるが、構成員一人一人もそれを負うのだ。明日も組織がある簡単に思ってはいけない。自らの行動を刮目せよ!

荒廃地

多くのお企業様や金融・商社の皆様が「何か新しい事をやらねば」と仰るのだが、その「何か」がとても曲者で「労せず儲かる事」を指し示しているから嫌になる。お上が無責任に「大学は社会発展を牽引しろ」と言うもんだから、荷車を引く無料の馬みたいに思っている。馬が鹿を引っ張れるものか。いやいや、馬鹿な事を言っている場合では無いのだが、「何か」と言っている限り、それは受け身なのだ。御社の社是は何ですか?と尋ねて「信頼」などと答えているようではいかんのだ。

何がいかんのか?「信頼」というのは受け身であって、待ち受けの表現だ。木の根に衝突して卒倒するうさぎを待つようなものだ。「信用」という能動的な表現に対して「技術・サービスをもってして、その信用にお応え出来た」時に初めて両者の間に「信頼関係」が生まれ、ビジネスパートナーが生まれるのだ。「信頼」なんて二文字を額に入れて社長室に掲げているようではいかんのだ。その時点で、「何か」は『木の根に激突して卒倒するうさぎ』ということになる。

一方で、今無い世界観を描いて、その達成に必須な項目を上げて、そこに到達するまでのストーリーを描ける企業もいらっしゃる。この差は何かと言えば、100の失敗を経て1の成功に辿り着いた企業か、図面待ちやM&Aだけが顧客価値関係性と思っている企業かの差である。断言するのだが、事例的に間違いなさそうだ。B2CはCから生きた要求が続いている間は良いのだが、移ろいゆく世の中の先を読んでいないと、あっという間に沈没するのは間違いない。

「何か」を自社で定量的に考えねばならない。政治家は国民が泣くことしか選択しない。荒れ果てた農地を集約して、企業化し、自然を活かした米作に取組み、村おこしに挑戦し始めた地域もある。ものづくり企業は「ものをつくれる」のだが、図面がなければ作れないと威張るのではなく、何故、自社は選ばれるのかを徹底的に分析し、その強みを活かす枠組みを作るところから始めねばならぬ。図面が来なくなったものづくり企業は耕作放棄地と等しい。良さを活かし他者の為に出来る事を共有する。それが出来ねば荒廃地だね。