敬老って

80歳以上の方が10人に1人の国だそうだ。健康長寿の国という事なら良いかもしれない。ただ、平均の健康寿命は72歳程度だから、多くが病みながら生きながらえているということだ。楽しくない国である。そんなことであるならば、第一期お仕事年齢の間に、もう、これ以上、絶対に無理という、人に尽くしきるお役を獲得させて頂いて、それに死力を尽くし、燃え尽きるのが良い。小生などはそれを目掛けて突っ走るのだが、どうも、無限の耐力故に死神が呆れているようで、まだ、もう少し、時間が掛かりそうだ。

健康寿命と言う不可思議な指標があるわけで、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間というのが厚労省の定義で、介護等、全く要らないよという素晴らしい状況というわけですな。とある組織においてはスローガンみたいになっている「ピンピンころり」という状況が最も素晴らしいと思っている。小生の身内でもそんなかたが、過去にいらっしゃって、朝、起こしに行ったら他界していたという、見事な臨終である。

先日、山奥の人跡未踏(そんなわけない)の地みたいなところに行ったら、集落全員参加の運動会をやっていた。ちらっと拝見したのだが、小生より年下の方って何人いただろう?でも、皆さん、お元気なんですよ。山紫水明、自給自足っぽく、素晴らしい共同体だなと感じましたな。健康寿命の平均値が90歳くらいになってんじゃないのかと感じた次第。南北朝時代の親王の館周辺に集まった方々が、都から落ち伸びてそのまま続く集落だそうで、戦国時代に信玄公が作られた関所が江戸時代まで続いていたそうな。

太陽と水、健康な大地と空気。結局、生命はそんなところに生まれて、そして適応しながら命のバトンを繋いできたわけだ。複雑な社会で自己欺瞞をぶつけ合い、ストレスを高め、医療工学の進化によって生きてはいるが健康ではないという状況で生きながらえないといけない。敬老ってとっても良い単語だと思うのです。でも、それ、健康で自らの意志で活動できる状態で居てくださいということだと思うのですよ。そんな時代になっているのかしらと、世界を見渡してため息をつく私であります。

改悪

70歳や80歳の人が国のトップに座っている。極めて奇妙である。内閣改造とか言う前に、国民の頭の中を改造するべきである。国の行く末を国民が見ないから、政治屋は派閥争いに徹し、日本銀行を傘下に置き、お札をどんどこ印刷し、貨幣価値も国の価値も下げていく。能天気な国民だから、トップの年齢がどんどこ増えて行って、世界の政策から置いてきぼりを食っていることに気が付かない。ゆでガエルはこうやって作られる。良い見本である。

30代くらいのやんちゃな首相を見てみたいものだ。夢と希望だけを語って欲しいものだ。小生は棺桶に両足を突っ込んでいる老害者だから、20代、30代の夢など聞いたことがないのだが、一体、どんな夢と希望を語っているのだろう。ネットを見てもそんなものに出合う事が殆ど無い。なんか、ほんのりというか、静かできれいな暮らしみたいなものには沢山出会う。もっとも、全てが揃っている現代であるから、あれこれ実現しようと思わないのかもしれない。

月面走行車とか、そんなイベントには群がるので、地球にはもう夢を抱かないのかもしれない。山間部でステアリングを握っていると、崩壊した民家だったり、崩落して通れない道路だったりに多く出合う。無計画に野山を切り開き、大地を傷めてきた結果である。山間部の醍醐味は、平安時代だったり室町時代だったりの政策的拠点が残っていて、そこへの道筋が未だに崩れていない事である。地震や山津波が発生しないところに拠点を構える。先見の明ということだろう。

先を読まねばならぬ。先を読む学びをさせねばならぬ。学ばないとどうなるのかを、今は見本が沢山あるからサンプルに困ることは無い。沸騰した地球に住んで、どうやって生き延びるのかを真剣に考えねばならぬ。今、温暖化ガスの排出をゼロにしたって、今後50年以上は凄まじい熱波の中で生きねばならぬ。生きるには夢と希望が必要だ。個人個人で持つのも良いが、大いなる夢と希望が社会に会っても良いではないか。そう思っている。

ハゲタカに告ぐ

未だに大学人の知恵は無料だと思っている企業が多過ぎる。理由は有るのだろうが、それを前提として迫ってくるから恐ろしい。最近は極力、口を閉ざすようにしているのだが、何でもかんでも聴けば応えてくれて、それを自分の持ち物として、自在に利益に換えてしまう。ハゲタカジャーナルは有名だが、自分では何も生めないからハゲタカになる企業が多くなってきている。大いに注意をしなければならない。

大学人も気を付けねばならぬ。ついうっかりは通らない。自らの知恵は公共のものなのだが、それは無償という事では無い。例え税金で育てて頂いた頭脳であっても、そこから生み出した知恵は、対価を取って還元しなければならない。その対価はその環境維持に使われるべきであって、自らもそしてその組織に居る全員に対する責務である。組織としては大学人の知恵を護るルールを持ってはいても、自らが知恵の泉となって分け与えられてしまうとどうしようもない。

ハゲタカジャーナルは調べようと思えば何とかなるのだが、レフリーが査読内容を読解して、自らのグループに実践させて、先に投稿してしまうことが横行したお陰で、投稿日を付す真っ当な論文誌が増えてきたことは好ましい。何を信じたら良いのかと思うのだが、創造した知恵を守ることはとても難しいということだ。教科書に載っている知識の伝授とは異なるのだ。知恵と知識を混同してはいけない。仕事と作業を混同するようなものだ。

自らの知恵がどのような価値を生むかもしっかりと認識しなければならない。今までの何をどのように変えて、その変えた結果、社会はどんな変化をするのか。それを考えず、単に面白いからということでは広がりが無い。純粋な自然理解が目的であっても良い。それは究極の姿だ。それを成せる者はそれを追求して頂くのが良い。しかし大学人であればそれをもって、若者を学問にいざなって頂きたい。社会の価値は若者の活気なのだが、それを創り出す、大学人の知恵の深さこそ根源だ。それを盗難してはならない。

何の為の教育?

てっちゃんと言えば、様々な形態の鉄道オタクを指し示す用語であろう。もつ焼きを思い浮かべる氏もいらっしゃろうから「あろう」とさせて頂く。小生も僅かだがその気があるのだが、お仕事が私事を許さないので、鉄道旅を楽しもう等という行為はとんとしたことが無い。したことがないので、生きている間にやってみたいなと、最近、思うようになってきた。そして、鉄道ってこの先、どうなるのだろうとも思っている。

鉄路の保全、車両の安全点検はとてつもなくお金が掛かる。当然、公の助成が無ければやっていけないわけで、住民サービスの公共事業としての色合いを強く感じる。土地の獲得にせよ、凄まじい資金が必要だ。そこを安全を担保する整地を行い、鉄路を通す為に、どれだけの知識と資材が必要になるのか。そして新規技術開発が必要になるのか。超低床電車などは技術革新は物凄く、都市部での自動運転技術開発よりよっぽど気が利いていると思うのだ。

社会経済的には個人がじゃんじゃか給料を稼げて、高額消耗材、即ち自動車に金を掛けろと言うことなんだけど、日本の街中でそんなもん、必要かなと、ガキの頃から思ってきた。必要な時だけに借りて、普段は要らない環境にありたいと思うわけだ。まぁ、自動運転で何処かに連れて行って欲しいから、その手の技術開発はやって欲しいけどね。名古屋などは市電を地下に埋めてしまって、とっても勿体ない事をしたものだと本気で思っている。我が物顔で人を跳ね飛ばす自動車だけがもてはやされる事に嘔吐する。

人中心のものづくり社会を考えたい。どんな人を喜ばせるのか。どこで喜んでいただくのか。そんな思想を三つ子の魂から擦り込んで頂いて、小学校では人に暖かい国ってどんな国とかね、そんなことを考えて頂いて、中学校ではそれを経済的に満たす為にはどんな政治家がどんな政治を成すべきかを実戦的に学び、高校生では法律をどうすればそんな国になるのか考え、大学ではそれを実行するための技術・ルール・サービスをニュービジネスとして実践する。20年以上掛かるが、技術ってそんなもんでは無いかしら。そう思うのだ。

文系オタクたれ!

関東の大学でも理工系大学における女性推薦枠の設定が成されるなど、総数としての理工系学生を増やそうという働きかけが成されている。資源の乏しい我が国にとって科学技術の創成は重要だと言うわけなのだけど、それを大学にだけ求めて何とかなると想っているところが凄い。実体は解らないが、少なくとも世の中で勝手に言われることに「大学の受験が変われば高校が変わる、その下が変わる」と言われているので、流れが何か出来るのかもしれない。

「性」って昨日今日出来たわけでは無いのだ。雌雄が生まれた何十億年も前からあるわけで、その特性に応じた活かし方をすれば良いだけのことだ。その人の個性ということなのだろうけれど、その個性を生み出す価値観って、日本では大昔から三つ子の魂と呼ばれるわけで、そこを変えないと何も動きはしない。何に対してオタクに成り切れるかなんて、本当にそんなもんだろう。ガキの頃から親に殴られ続けていれば、周囲の状況に対する観察眼と対応力が発達する。そんなもんだ。

理工系を強化しようと国立・私立問わずに文科省の指示の下、投資を拡大させるわけだが、日本発の価値を世界に買って頂くという観点だけからすれば、それは理系に限ったことでは無い。むしろ、人の心の琴線に触れるアイデアを出して頂けるのは、究極の文系オタクの皆様では無いかと感じている。問題は理系の旧態依然の化石脳の方々が聴く耳をもたないこと、そして、文系の方々が声高に「こうあって欲しい!」という願いを叫ぶ場が政治に無い事。

文系の男子が政治家をやっている限り、何も変わらないでしょう。未だにマイナンバーカード云々叫んでいるくらいですからね。世界では年金番号が出生の頃から当たり前にくっついていて、国民として認定されるのに、そんなことすらあたふたする国家である。自国の文字、文化を使って表現出来ず、自国の中ですら対話が成立しない。こんな悪分の極みを書き続けて恥ずかしく無いのかと言われるわけだが、それはほっといてちょうだい。これは「たわごと」ですからね。徹底した文系の強化を実現して頂きたい。理系も文系も無いとは思うのだが、文系のJABEEみたいなもんがあっても良かろう。そう思う。

努力

企業様向けにとある講座を「有償」で提供させて頂いている。その昔は聴く側がいい加減だったような感じを受けて、それならば無償でと、お付き合いメインなんだけど、全力で行っていた。なんとなくの違和感があったのは「その後どうなったの?」というリアクションが全くなかったから。学びました、でも、そこで得た知恵を何にも使いませんでした、ファイティングスピリッツも高まりませんでしたみたいな、そんな受講生相手に疲れ果てて、暫く、受けるのを止めていた。

それは外部向けなのだけれど、内なる組織においても変わりたくない、面倒は増やすなと言う、言ってみれば内乱を起こされたから、それならと自身で示すしかないなとなり、事業部を立ち上げて、営業、販売、売り上げで事業実践と、まぁ、社会では当たり前のことをやり出したわけだ。いろんな壁を立てられるが、企業の皆様の本気度は圧倒的に高い。こちらのやる気も、自らを精神的に押しつぶす程に高まり、それが本業にフィードバックされるから全てがプラス方向に動いていると感じる。まぁ、満点では無いけどね。満点はありえないからそれでよい。

で、表現方法を教授するのだけれど、この表現における文型というものを使えない方々の多さに驚かされる。勿論、完璧に使いこなされる方もいらっしゃるのだが、体言止めで「だから何?」と、会話にならない方が大勢。何でなのかなと思うと、中学校の英語の授業が良くなかったのではないかと、自分の年代の授業を思い出し、不快感が湧てきた。国語教育の貧弱さということもあるのだろう。日本人、表現教育を疎かにし過ぎ。

現在の行動が誰をどう変化させ、その結果何が生まれるのかということだけで良いのだけど、「これはこれ」で終わってしまう。エンジンは動くみたいなね、だから何なの?考え方も伝わる表現も学ぶ機会を与えられずに、過保護だったり競争だったり。苦しくなったら止めちゃうとか、最初から嫌だと言うと許されてしまうとかね。そんな教育を受けた人が教壇に立つ国は滅びるね。必死になって挫折して、折れて諦めて、それでも立ち上がってきた者の精神は美しい。そんな君は更に進めば良い。怠惰な者に愚痴を言う暇などない。そんな者を思う瞬間を、君の力で未来を拓く時間として欲しい。努力する機会は永遠に与えられる。それは万人共通だ。有難い。

ゆでガエル

国立大学が置かれた現状って、地面に穴を掘らせて、その穴に飛び込ませるみたいな。全体の税金投入額は変わらないのだけれど、各大学から8%を取り上げて、それを再び取り戻させる。疲れた大学から穴に飛び込んでいく。穴の底を更に掘り下げて、次の年がやってくる。こんなことを繰り返しずっとやってきたわけで、地方の大学の疲弊感は凄まじい。鶴舞大学も御同様である。

一番の被害者は学生さん達である。疲弊した組織で学びたいとは思うまい。そうならないように、経営サイドは必死なのだが、どうも必死にやり過ぎると、環境のぬるさゆえにゆでガエルが出来上がる。大学の外は熱湯なのだが、どうもそれが伝わっていない。社会的にも研究力が低下している、もっと競争させろとか、少子化なのだから無くしてしまえとか。そんな他人の上から目線批判はゲリラ豪雨の様に降ってくる。穴の底の大学は溺死する。

大学という組織は、今、国立大学時代に入社?した教官と、法人化後に入社した教員と混在しているわけで、教官側からすると、黙って座っていても国から研究費がぼんと降って来て、象牙の塔に外野の声はいらんと、そんな時代を引きずっている。一方で、教員として入社した皆さんは任期解除を目指してひた走ってきている。研究費を年々減らされながら。そこの部分は各大学での経営努力で、ある一定額をキープできていたりいなかったり。

競争しろ、それは正しい。でもそれは国内の大学での潰し合いでは無い筈だ。ゆでガエルが池に浮かんだ様を思い浮かべるが良い。そして熱湯がどれだけ恐ろしいか知るが良い。未来を担う学ぶ者が学ぶことだけに専念できる仕組みが無ければならぬ。これからはリカレントも極めて重要である。リスキリングも同様であろう。IT、IoTが劇的に進化している時に、紙とハンコを頑なに守ろうとすることの愚かさである。劇的に変わらねばならぬ。その通りだ。

精神論

バックキャスティングは生易しい思考法では到達できない。省庁が示す2040年の未来像から考えて、今、何を成すべきかという思考に移っていくのだが、そもそも現状にこんな不具合があるからそれを解消していこうと提示された未来像に、真の未来など無いのだ。ベンチャーキャピタルの方々とお話をさせて頂く機会は多くなったが、彼らは簡単に、「ペインからバックキャストして」などと言葉遊びに酔いしれるわけだが、今の積分をしていく過程で、情報を収集して組み立てろというフォアキャスティング思考になっていることに気が付かない。

多くの研究者においては研究のアウトカムとアウトプットの差を意識していないから、ファンドの獲得に繋がらない。これも未来における自らの基礎研究の価値を表現出来ないから。基礎研究って社会の役に立たなくて良いのだって、そんな学問なんて無いよというのが小生の想い。哲学だろうがなんだろうが、自分以外の誰か一人でも感動出来たらそれが社会の役に立っているということだ。いや、自らも社会の一員だから、その一員を心底感動させたら、それこそ素晴らしい。

未来をイメージすることを日本企業は極端に恐れていると感じる。新規事業を考えろと言って、世界中から情報を集めさせる愚を繰り返す。社員から夢を引っ張り出して、その夢を評価出来ないミドルに溢れていることと、挑戦に怖気ずく村社会の有り様が日本衰退の元凶だ。政治家は当選したら国家国民よりも自らの次の当選を願い行動する。そんなことで国家が強く成る筈が無い。教育の効果を世界に発信できる人財育成が出来る筈が無い。

技術はあるのかもしれない。勿論、今、売れている商材を作っているのだから、この瞬間までの技術はあったのだろう。新規採用した社員に過去を刷り込み、ステレオタイプに仕上げて、挑戦しない飼い犬に仕込んでいく。野放図に挑戦を続ける海外の企業に勝てる筈はない。精神論を語ると、戦前の軍国主義者と表現を換えられ弾かれる。精神論で良いのだ。そして未来を空想して良いのだ。そこに笑顔が見えるならば。もう間に合わないかもしれないが、挑戦を始めている企業様もある。草葉の陰で楽しませて頂こう。

ドクターコース

博士後期課程、所謂ドクターコースへの進学者が、この20年間で2割減ったとのこと。研究が面白いからチャレンジしてみようと思った38年前であるが、その時と今とは随分と時流が違う。当時はまだ、企業に研究所があって、博士取得者がそれなりの待遇で雇用して頂けた時代である。それがバブルが弾けてITバブルも弾けて失われたなんとか年とかになり、今や、博士を取得してもインセンティブはほぼゼロの時代。生涯賃金は大卒の方が上の日本において、博士課程の研究に物好きで取り組もうという若者の減少は停めようがない。

お上は研究のコスパを上げろとかね、何だか全くわけのわからないことを言い出すわけだが、ぴちぴちしたドクターコース学生の密度が上がらないと、ひょうきんな研究が開始されないので、世界から取り残されていくのは間違いなかろう。発想の豊かさというか、24時間、実験をし続けると、何か見えてくるものだ。絶望が見えるだけかもしれないが、それでも何かは見えてくる。そんなもんだ。

ちょっと前に、巨大な学会の支部長などを仰せつかっていたので、学会参加者の減少も極めて大きな問題と感じた。まぁ、国内よりも国際学会に出席していれば良かろうということではあるのだが、国内のコミッティに参加して、研究者仲間を作っていくということも貴重な経験で、それは若い頃が望ましいと思っている。未だに、お付き合いのある皆様は、その頃からずっと知り合いで、相談仲間でもあった。

漁業がトリチウムで風評被害に遭っているとか、そんなお話になると、東電ではなく国が借金で直ぐに補填するわけだ。ところが産業となると、票田にならないからか、ちっともアシストは無い。ましてや、大学なんぞにはびた一文だすもんか、競争して生き残れと言ってくる。多様性は必要だ。10兆円ファンドでどかどかと研究者やドクターコース学生を集めまくっても、同じ色の人種しか育たなければ、いずれ絶滅する。研究は愉快である。解らないことだらけだ。支援策は考えねばならぬが、取得した後、更に元気になるような仕掛けが必要だ。この国、大丈夫か。そう思う。

日々是決算

棺桶に両足を突っ込んで毎日を過ごしている身にとって、医療現場におけるAI活用がどんどん進んでくれないかなと、カプセル内視鏡での画像診断における早期病巣抽出の研究事例などを間近に見ていたので、そう願っているところだ。ところが結局のところ、現場のお医者様達の「とって変わられる恐怖」から厚労省が首を縦に振らず、例によって日本の技術は海外には流れていくが、日本では使われないという状況だ。

先日、ドック入りしてきたのだが、医療機器そのものは一年でびっくりするほどに進化していて、とある画像診断結果を見せられたらぐうの音が出なかった。お医者殿も「進化したんですよ~!」と驚かれているくらい。しかし、それは後の祭り的な診察であって、本来であれば検診途中でAIが判定して「もっとここを拡大しろ」とか、検査技師殿にアシストするとかね。容易に出来る筈なのに、日本ではそれがままならない。

病院への保険診療報酬という、ガソリンから直接・間接の二重課税をしているみたいな感じで(全然違うな)、お金で医療を縛り倒す。厚労省とすると、新奇なことを取り入れて、医療過誤が生じて「誰の責任だ!」と騒がれるのが嫌なのだろうが、医療行為で一番価値を享受できるはずの患者がそれを受けられない仕組みを国が作っているのだから腹立たしい。当然の事ながら、エレクトロニクス産業の方々にとって、認証されず、売れるまで無限に待たされる機器を作ろうなんて思えない。だから産業として失速していく。

先進医療機器と呼ばれる分野で、純国産のツールがどれだけあるのだろう。今春、某、医学部で紹介された機器を前に「これらは全て外国製です」と言われて眩暈がした。日本で作れないはずはないのだ。はずはないが、利益率が高くないと手を出さない日本企業と、任かなんてするもんかというお役所根性によって、日本人の体格にあった機器が作られていない。AIなんて現場に永遠に入ってこないのではないか。医は算術なり。親身の集金、日々是決算。予備校と同じだ。