出でよ!新時代旗手殿!

遅れているとか、旧態依然だとか、思考回路が古すぎるとか、いろんな言葉が内閣に向かって飛ばされるのだけど、何時も言うのだけれど、それを促進しているのは国民だからね。マスコミも批判だけでは無くて、国会議員殿は代議員で全ての議員が国民の代弁者なのだから、どんな意見が出ているのかも含めて批判なり肯定なりをして頂きたいものだ。罵声などはそのまま伝えれば良いのだけれど、これはどうかなぁという発言も多いわけだから、そんなところから、政治への関心を高めるところからじゃないかな。

企業からがっちりと税金を獲得して、労働者は明るい未来を信じて頑張った時代の納税の仕組みがずっと来ているわけですね。為政者は政治の良し悪しに関わらず、税金を獲得できるわけです。太閤検地がずっとそのまま続いているというか。いろんな犯罪ががきんちょの頃にはあって、それが高度経済成長という謎のフェーズを過ぎて、更に、世界情勢も相まって、世界中で物価高、給与安で、世相は再び犯罪リッチな方向へ動く。

DXとかGXとか言っているその横で、旧態依然が出てくると、変革には至らないのだなと諦めるのだが、自分の頑張れる範囲では何とかしようとあがき続ける。あがき続けはするものの、当然、限界はあるわけで、挫けることは沢山出てくる。思うようになど動けるはずはなく、社会の流れに逆らう事も出来る筈はない。考えねばならないことは、正しい方向に立ち向かっているかと言う自己の反省と、正しいとするならば、立ち向かうべきと思考することが正しいのかということである。

空気を読めとか、周りと歩調を合わせて同じ色になれと言われ続けてきた人生である。一方で、それに逆らい続けてきた人生でもある。いきなり方向転換など出来るはずはない。はずは無いから立ち向かっていくわけである。今は若手に期待するわけで、若手に投資をしていく時代だと思っている。政治家諸氏にしても今の実力は過去の積分であるのだから、未知の挑戦に挑むしかない。そんな時代になっているわけだから、旧態依然の皆様にはご退場願うということかな。

NDA考

知的財産をどう扱うかという前に、知的財産を産みださねばならぬ。それは当たり前の事なのだけれど、それを産みださねばならない人の育成という観点を日本はしっかりと認識しているのだろうかと不安に思う時が多い。何をもってして「発明者」と呼ぶのか。勿論、定義と言うか、事例と言うか、慣例と言うか。それは存じておりますよ。外部の刺激をトリガにして「思いつく」なんてことはざらにある現象であって、相手に何を喚起しているのかなんて考えながら雑談をしているわけではない。

その雑談の中にあって、ふと思いついて、それが発明となった時は、その思いついた人の発明になるわけだ。否定はしないけど、なんだかなぁと思わなくもない。まぁ、発明をするような人は、年がら年中悩んでいて「こうありたい姿」をイメージ出来ているからこそ、ほんの小さなトリガで、シナプスの再配列を生じさせるのでしょうね。無意識の一言が相手のシナプスの再配列を誘起して、発明を産ませてしまって悔しい想い位だったら我慢するとしよう。

ところがだ。明かにこちらの知的財産ですよというところに、知らぬ間に入り込んで来て、それをあたかも自分が関わったかのごとくに言いふらし、利益をさらっていこうとするコンサル業者の何と多い事か。最近は面談お断り事例がかなり増えたが、それはそんなことが要因だ。対面の会議からはそそくさと逃げ出すのもそのためだ。いきなり一見さんが見知らぬ人を連れてきて、後からその見知らぬ人から「一見さんから金を取られた」とかね。知らんがや。

大したことなど無いのだ。発明って、その生まれた時には、何年も徹夜して、病気になって苦しんで、何人もの協力者と造り上げた結果得られるものだから、もの凄いものって感じてしまうのだけれど、それを越えるものを作ってしまうと、なんであんなに自分の成果って息巻いてしまうのだろうと反省する。知財の権利に刻限が付いているのはその為であろう。とても正しく思う。直ぐに真似されるものなどはそれこそ大したことはない。それでもシナプスの森に土足で入り込み、乱していく奴は大嫌いだ。

飛ばない

何時頃正式発表になるのかなと思っていたら、まだ、リークというか、故意のリークなのだろうけど、ついにMRJは飛ばないことが決定してしまいましたね。日本は旅客機を作れない国。それが露呈してしまったわけだ。鶴舞大学は戦前には航空機の開発もしていた老舗であるわけだけど、完全にかどうかは解らないが、現時点で、国内製造という道は再び塞がれたということで、妙に切ない気分である。

MRJのモックアップに入らせて頂けた数少ない日本人だと思うのだけど、それは心地良かったですよ。こんな機体で旅をさせて頂きたいと、心が躍ったのは事実である。開発に携わった方とも直接対話をさせて頂いたこともあり、なんとかならないものかと想ってはいたものの、いずれこの日が来るのだろうなとは思っていた。思っていたのはエンジンが海外の企業のものだから。エンジンができなければそれは国産とは言えないだろうというのは僕の考え方。

大型機のエンジンと言うものはとてつもなく難しいものだろうと、飛行場で大型機のエンジンを眺めるたびに思う。超高速で回転するニッケル基合金製のブレードがミクロンオーダーの精度で並び、ほんの数ミクロンのゴミが活着していただけで根元から折れエンジンケースをぶち破る。そんなニュースを拝見すると、これを工業製品としてお客様の安全を約束するのはどれだけ大変なのだろうと思う。しかしそれを実現して欲しかった。

自動車においてもエンジンは究極の姿だなと思う。F1を代表としてその究極の環境で活躍する工業製品を作り続けることこそ、国力だと信じてきた。それに挑戦しようとする姿が神々しくも思えた。挫折と言うことになったのだが、こうなってくると、共に夢を見た企業群も元気がなくなるだろう。4選を果たした知事殿にはいきなり厳しいハードルを突き付けられたように見える。またゼロからスタートだが、再スタートを求めたい。勝手な言い分だが、そう思う。

風まかせ

風まかせのこんにゃく塗布の風船爆弾を思い出す。思い出すと言っても、その当時を見ていたわけでは無いのだが。そんなきな臭い風船が、この時代においてもあるのだなと、ニュースを見ていて思う次第だ。米国からすれば先の大戦中に日本からこんにゃく風船爆弾を送り付けられた経験があるのだから、警戒するのは当然である。それを知らずに某国が偏西風に載せたのであれば、それはそれで軽率と言うものだろう。

余りにもややこしい話に首を突っ込むつもりはない。アラスカ上空から入ってカナダを横断して、大陸を横断させてから内落とすというのも妙な話だなと思ったりする。近代技術だと、風船も容易に地球を一周できそうだなと、恐らく、ヘリウム充填なのでしょうけれど、気密性は大したものだなと。ジェット機の機影との比較しか出来ないけれど、かなり巨大な風船だから、それなりの観測機器も搭載できたでしょう。撃ち落とすよりひっかけて降ろせなかったのかなとは思いつつ、そうしたかったのだなとも考えたりして。

大気の外から観測するのと、内側から眺めるのとでは情報量が違ってこよう。大国同士の争いは、地球そのものをあらぬ方向に向けていくので、可能な限り対話で解決をして頂きたいのだ。改めて思うのだが、何かをやらかそうとした時に、地球規模の壮大なお話はともかくも、影響が及ぶ範囲を想定して、少なくともその範囲においては情報に共鳴をお願いしないととんでもないことも起こりうるのだなと言う知恵としようと思った次第。

目の前で発生したことですら全てを見ているわけでは無い。目の前で何かが起こったとしても、その起こる前段階は誰が何時準備したのか。何が誰にどんな想いをさせるのか。技術経営のMOTみたいなものなのだが、要素から価値の流れを考えた時に、見えるものは価値でしかない。その価値がどのような仕組みで成立しているのか。そして自分は何故、それを価値と思うのか。自らを客観視する必要もある。映像の中で、白い破片が飛び散っていく様を見て、難しい問題のトリガとなるのだろうと不穏な空気を感じた私であります。

元素

EVに限ったことでは無いが、産業というか、経済活動と言うか、ゲームチェンジと言うか、天然資源が大きくものを言っている。一般民間人の皆様は興味すら持たなかったと思うのだが、ガラスの研磨に使われるセリウムを大国が輸出しないよと言っただけで、バックヤードは大騒動になった。その代替をどうするのか、元素無しで要求される製品が出来るのかと、てんやわんやであった。結局のところ技術的にそれをカバーしてしまって、セリウムの価格が暴落したことによって、ガラス研磨に対する元素戦争は終焉を迎えた。

元素は地表を均質に覆ってるわけではなく、水溶性化合物の状態で地表から流れて湖の底に沈んでいるかもしれない。地下水資源がリッチで、天からの雨の恵みが豊かな土地においては海に流れて、かなり限られた資源のみが採掘コストに見合う状態とはなっていない。銀などは稀な元素であったが、掘り尽くして枯渇状態だ。話が逸れたが、EVの登場によって様々な元素の大量消費が始まっている。元素が単独で出てくることは無く、生命に有害な形で出てくることもある。

するとそれを産業的に活用できるように抽出していくためには、それなりのエネルギーが必要で、そのエネルギーはそれが活用されて省エネルギー効果をもたらすよりも多くのエネルギーだったりする場合もある。イタイイタイ病や水俣病を忘れてはならず、その反省において、次世代の社会をイメージしていかないと、繰り返される歴史となってしまう。電池の材料としてもっとも期待されているのはリチウムだが、決してそれだけではない。

見上げれば電柱を繋いでいる電線は銅で出来ていて、その銅も、今の調子で採掘を続けていくと、リサイクルを含めても、10年程度でEV社会を満足させることは出来なくなってくるというお話もある。あくまでも言われているということではあるが、地球上の資源が無限にあるはずもなく、高度テクノロジーを元素の機能に頼っている時代は終焉を迎えるだろう。それが明日たというわけではないが、方向性を大転換する時に到達しているのではなかろうか。そう感じる。

節分

節分である。季の節目であるから、いよいよ寅年気分は無くなって、兎年に本格チェンジである。節分と言えば豆まきで、鬼も必ず付いてくる。鬼は心の闇だから、その闇がこちらを見つけないように「鬼の目の玉ぶっつぶせ」と、暗闇に向かって豆を撒いて、さっと玄関を閉じるのだよと、おばあさまにじっと見つめられて語られて以来、心の鬼が怖くなって、心に鬼を湧かせないようにするにはどうすればと悩んだら、こんな歳になってしまった。

地方によっていろんな謂れがあるのでしょうけれど、今の時代、ネットを検索すると節分の由来とか、地域の節分とかいろんな情報が目の前に並びだす。某、なまはげ県を訪れてお伺いしたお話は実に強烈でしたな。冬になると難破船が漂着する。外国の舟だったりして、そこから鬼が降りてきて、家を襲い食糧などを奪っていく。それがなまはげのきっかけなのだと。民を泣かせて、脅かしてくる。その鬼と豆まきとの結びつきは聞けなかったが、ひょっとしたら豆を提供したらおとなしく帰ってくれたのかもしれない。

日露戦争での日本の勝利は、豆を水に浸してもやしにして食したのに対し、ロシアの人々は豆を煮て食した。その結果、ビタミン類を日本人は獲得出来、それが無かった人達は、健康を害し敗北したというお話を伺ったことがあるので、豆を食する文化を御持ちなのは間違いなかろう。冬の備蓄食料として豆は古くから食べられていたが、日本の湿って適度に気温が高い環境は、もやしの生育にはもってこいだ。そんな生活習慣が無意識に健康を維持しているのかもしれない。

そんなことを思っていると、豆を炒って歳の数だけ食べるなんてことをすると、健康に悪いのではないかと思ってしまう。そもそも食糧である豆をばらまいてしまうとは何事か。SDGsに反する事この上ない。しかしながら風習というのは恐ろしく、無意識に豆まき用の豆を買ってしまっている自分に苦笑いである。鬼も福も共に笑い合えるのが宜しい。鬼と仲良くなれるくらいの気持ちで良いのではないか。そんなことを想いながら、豆を撒くとしよう。心の鬼を退治するために。

データオリエンテッド

街の偉い人のお話からはSDGsだ、カーボンニュートラルだと、まぁまぁ、どんどこ出てくる。これは世界が向かう方向だから仕方がないし、地球の破壊の限りを尽くしておきながら、今更脱石油も無いものなのだが、省エネは絶対に正しいと思っているので、その技術開発の結果、SDGsの何らかの項目が達成できれば良いくらいと思っている。何かをやった結果、生命の故郷の地球が守られればそれで良かろう。

地球の歴史を紐解けば、全休凍結だの平均気温40度越えなど、人類は死滅する環境があったわけで、今の技術ならきっと生き延びてしまうのでしょうけれど、地球のリセット機能を働かせて、どうなるのかを見たい気もするのだ。もしも人間が産業革命を発生させずに、地味に生きていたら、地球温暖化のトリガは掛からなかったのかどうなのか。石油などは地上に溢れて、揮発性炭化水素を継続で気に発生させていたし、繁茂した植物は腐敗してメタンガスを発生させていただろう。

海洋においては大型生物が大繁殖した小型生物を食べまくって排泄して、それからもメタン等温暖化ガスを排出したであろう。深海であれば低温故に、その問題は無いのかもしれないが。何がどうなっているのか解らないが、今の工業生産状態よりは温暖化ガスの排出は少なかったであろうということでしょ?数値で見せられるのは、1960年くらいからじわじわと平均気温が上がっていますねというグラフだけで、過去1万年くらいの、明かにホモサピエンスが活動している期間における大気中CO2濃度と平均気温との関係図などは見せてもらったことはない。

今あるデータを切り出して、こうなるから何とかしろというやり方は気に入らない。繰り返しになるが、省エネは当然目指すべきだし、資源の無駄遣いは絶対にやめるべき。森林破壊も論外で、適切な量を保たねばならぬ。しかし、地球と言う故郷にどれだけの人口がひしめいて良いのか、誰も知らない。無尽蔵に増えて、経済活動を続けることでQOLのベースラインを上げ続けたとして、それはホモサピエンスが本当に体験したことの無い事態なのか、宇宙規模のイベントで、地軸の傾きの偏差とか、いろんな要因で起こされている現状なのか、リアルな検証結果を見せて頂きたいもんだ。どうも窮屈である。

教育行政

名古屋市長が小中学校生にキャリア教育をということを打ち上げられた。これはとても称賛されるべき事と思う。勿論、閉鎖の極みの教育行政に市長の想いが届くとは思えないが、将来の夢を持って学びに取り組むのか、受験という競争の勝利者というゴールを目指すのかで、その後の、国の有り様は変わってくる。サラリーマンになって終身雇用なんて概念が無くなり、生きている限り働いて自活することが前提の世の中になって、旧態依然の教育で良いわけがない。リーダーとして英断と讃えたい。

地域と共創でということだが、その中身は全く分からず、恐らく、こうありたいという掛け声だけで、中身は無いのであろう。それはそれで良い。方向性を示すのがリーダーの役目で、それを汲み取り形にするのはサブリーダーの務めだからだ。リーダーが方向性を明確に示さないから、全てが瓦解してくのだ。こんなことを言うと、総スカンだと考えるのだろうが、既に世界から総スカン状態の日本なのだから思い切れば良いのだ。

考えて良いと言う事だ。正解なんというものは概念から外さねばならぬ。ただ、心地良くなっていることを共同体の中で共有できる事が重要だ。キャリア教育をと打ち出したとして、それが実るのは遥か先。それこそ次の市長の代になってから漸く効果が表れるだろう。それで良いのだ。教育の効果など50年以上経過しないと出てこないに決まっているのだ。それを理解せず、次から次へと行政から提案が降ってくる。毒まんじゅうとなって振ってくる。食っても死なない身体を作っておくか、食って即死するか。

エンジニアリングをモノとモノとの組み合わせで利益を上げる仕組みと概念づけてしまう日本だが、場における「こと」の価値を最大化させる智慧を産むことこそエンジニアリングである。体験もエンジニアリングによって産みだされる。その体験がどのような波及効果をもたらすのか。それがビジネスモデルであり、粗利の源泉である。図面を起こせるものづくりは既に過去の異物だ。夢をイメージ化しデザイン出来る思考力。是非、育てて頂きたい。あの世から見守ることとする。

プラスチック

同質のものを沢山作って、商材1個当たりのエネルギーを下げて、安く消費者に届けて頂いている企業が沢山。世界中でコスト競争と言うか、踏ん張りと言うか、それは凄いと思う。我が国においても漸くエネルギーコスト等が商品価格に転嫁されるようになり、その値上がりに魂消ることもあるが、まぁ、それは当然かなとも思う。自分の稼ぎではこの辺りの食材がお似合いだということだなと割り切って、甘んじるわけだ。

それでも企業殿の努力は凄い。何が凄いかと言えば、食材のパッケージ。空気は通さないけど、エチレンは通すとかね、水も通さずお菓子も長持ち。長持ちの陰にはフィルム業界、言ってみれば化学業界なのだけど、この開発には極めて長い年月と開発コストがかかっている。その素材に対して「全て植物由来にしないといけない」みたいな圧力が世界中から巻き起こっている。

植物由来樹脂と言うか、植物から抽出しないといけないのだけれど、現状の機能の発現を植物由来に求めるとなると、まぁ、ひょっとすると出来てしまうのかもしれないけれど、どれだけの開発期間と植物が必要になるのだろう。日本の様に何処でも雑草が生え、竹が繁茂するなんて国はそうそうざらに無い。植物が生える場所と言うと、アマゾンのジャングルが丸禿になったりするのかなとも想ったりする。あくまでも今ある能力を保って、食材も長持ちさせるという条件を考えただけだが。

石油という素材が生み出した、社会的価値の大きさを改めて感じる。様々に石油の由来について語られているわけだが、限られた資源であることは間違いなく、また、プラスチックと言う安定した素材が海洋汚染等を引き起こしているから使うの辞めましょうと言うことなのだけど、植物由来のパッケージが、生命を脅かさないとは限らない。地球を汚すことは悪だというなら、その根源は人間にある。その活動の根幹にある経済偏重を野放しにして、特定分野を攻撃の的にする。全ての見直しの時期だろう。人間が生き延びるためには。そう思う。

改革へ

名古屋にやってきてずっと聞かされてきた改良と改善。損得みたいなもので、以前より良くしよう、悪かったところを善くしようということですな。それはとても重要なことで、基本的活動であることは間違いない。しかし、フォアキャスティングの視点で過去から今、そして未来を考える時、経験をベースに次に何をしようと言う活動だから、先細りは必然でしょうね。決まったパイを食べあうのだから、食べる速さを増したからとて、社会が獲得する幸は変わらない。いろんなところにそれはある。

リーダー同士の会話の中で、横に座っていて強烈に記憶に刻まれたことがあって「研究・開発なんて簡単に言うな!研究は出来るだろう、でも開発は出来ないのだ」。もう一つ、「安全・安心なんて簡単に言うな!安全は当然、安心は永遠の課題だ」と。共に既に亡くなられた方が今もご存命の当時のリーダーにぶつけたお言葉なのだけれど、そこに居合わせて本当に幸せな経験だったと感謝している。カバン持ちの役得である。

教育の仕組みにしてもそうで、経験を重ねた者の言い分の平均値をとると、確実に改良・改善の思考の方向に向かっていく。絶対値では無くね。小生の親などは事あるごとにそらんじていた教育勅語を語って聞かせたものだが、それはある意味絶対的基準を満たそうとするものであって、バックキャスティング的発想だったと今は感じる。到達しえない理想から今ある教育を語る。これは所謂、改革の姿勢であって、昨日の自分ではなく、明日あるべき姿を描くものだ。

個人的理想と社会的組織のあるべき姿とは異なってくるのだが、間違いないのは、今、30歳の方は20年後に50歳となっている。きっと「この老人が何を言うか!」と思っているだろうが、必死に頑張ると20年はかなりの経験を積む、いや、積んでしまう。しかもそれは30歳の方が10歳から30歳までの多感な時期における社会の20年間とは異なる質のものある。もしも改革に挑戦できる社会を望むのであればやんちゃな20年で得た感性を、老人の機能を活用するべく大きな声を挙げねばならぬ。老人はそれを護りつつ、安心を担保せねばならぬ。改良改善から改革へ。生き残るにはそれしかない。そう思う。