改革の方向性

我が国の教育改革というと、Q1ジャーナルやトップ国際学会でのプレゼンが諸外国に比べて絶対数が少なく、伸び率も鈍化している大学が悪者化されて、少子化において、特に税金を投入しなければならない国立大学法人は統合して、学長の数を減らし、国際的に戦える巨大戦艦になっていくべきだという方向性が賛同されるばかり。経済界も日本の企業が儲からないのは大学が人材を育成しないからだと、これまた安易に同調してくれるものだから、国立大学法人の立ち位置がどんどんと厳しくなっていく。

企業は通年採用型就職形態に移行してはいるものの、それは多くはジョブ型採用者であって、通常の卒業生に対しては、所謂一斉採用が保たれたままだ。企業が「この学生こそは!」という者に奨学金を出して、博士まで伴走するなどと言う、海外で見られる育てて採用するというパターンは殆ど無い。文理融合型教育をしろとか、起業家教育、リカレント教育をしっかりやれという、企業にとって都合の良いことばかり言う。まぁ、それはそうかもしれないけれどね。

理系人材を増やせと言って、数理・データサイエンス系学科を国公私立問わずぐわっっと増やしたわけだが、教育する側の質の担保はどうしてくれるのだ。全国に800を越える大学に対して一律の評価基準を押し付けてくるやり方を変えようともせず、特色を出せとかね。卒業要件の厳格化や学修成果の可視化要求はその通りだと思っている。それらを黒船として活用できない大学は消え去る運命にあるのは間違いない。大学側も「言いたいことを言いやがって!」と外圧を排除するだけでは無く、黒船として活用させて頂けるところはさくっと頂くのがよろしい。

某巨大企業殿からは、博士後期課程修了者に対しては既卒者扱いのジョブ型採用であるし、過程において挑戦したプロセスが重要で、それは課題設定能力、論理的思考力、創造力に直結するから喉から手が出ると仰って頂いている。要は大学は研究の府であるのだから、博士後期課程に気持ちよく挑戦できる環境を整え、世界と交流して、我が国をけん引する人材を育成していく義務があるということだ。それは当然そうだし、学科・分野の存続にだけ大声を上げる大学は社会から見放されていますよと言うことだ。未来を創造する場である。今を護ろうとする場では無いのだ。

締切考

毎年のことで慣れていると言えばそうなのだが、締切がお盆明けから一斉に増えるということ。お盆前に解っていたことでは無く、新規にどどどっと襲ってくるのだ。勿論、お盆前からの頼まれものもあるのだが、それはかなりの案件をお盆中に撃退できるからそれはそれで良いのだ。お盆休み中に申し訳ないということは全く無くて、24時間、お仕事をさせて頂ける期間中こそ、お仕事を押し付けて頂きたいものだ。ご先祖様とそんなに長く戯れるわけでは無いからね。

リフレッシュしているのだかいないのだか解らない状況でオフィスに入ると、恐ろしい密度で締切付きメールがやってくる。内容が面白ければ良いのだろうが、解釈出来るまでに時間が掛かってしまうような、難解な文面にのけぞり、極めて近未来の締切を拝見してはのけぞり。次々と締切一覧がビジーになっていく様に、逃げ出したくなってしまう。逃げるところが無いというのが問題なんだけどね。

既知の間柄に向かってのプレゼン依頼というのが最もハイストレスである。初見の皆様相手なら「はい、ごめんなさい」で逃げ切れもするのだが、半ば追っかけの聴衆相手だと、必死になって新規の話題を作らなければとなり、これが猛烈にストレス源となるのだ。講義であってもそうだからね。毎年同じことなど話していたら、留年生に申し訳ないと、気合を入れ過ぎると、留年生が雪だるま式に増えていくから要注意だ。

審査というからには適合・不適合を決めねばならぬ。絶対値で通過させることが出来るのであればそれは気安いのだが、順位付けとなってくるとそう簡単では無い。ピンとキリの分類はこれはまぁ、容易ではあるが、チーム「ピン」を決めていく良心の呵責というか何というか。こんなことをさせないで頂きたいということなのだが、しかもそこには必ず締め切りがある。土日だっていろいろと新規に襲ってくるのだ。締切の無い世界に行ってみたいものだが、それはそれで厳しい世界なのかもしれぬ。より良くということに押しつぶされるのかもしれない。人間の悩みは尽きないものだ。

名目GDP

内閣改造の声が聞こえだすと、名目GDPが5%を越えた報道が成される。民間内需が0.5%のマイナスの状態だから、一般民間人にとって、景気が良くなったなんて感じないのではないかな?自動車業界の輸出が輸入を上回っただけの景気報道が、内閣改造のタイミングで聞こえてくる。最近のマスコミの内閣府歩み寄りには眩暈がする。これが日本の有り様だなと、活発なアジア企業の未来投資や挑戦的人材の共有の在り方と比べて悲観してしまう。

未だにリモートワークでは本音を出せないとか、顔と顔を突き合わせることが大切なのだなどという声を聞かされる。それではと対面型で会議をやってみても、結局は何の発言も出ず、陰口だけが積極的に飛ばされる有様だ。まぁ、日本らしいと言えばそうなのだが、どんどんと内に閉じこもっていく鎖国政策かと思ってしまう。様々なエレクトロニクスツールが発展を続けているのに、今回の名目GDP6%成長の報道においては、設備投資の伸びは0%であった。要するに明日への投資はしてませんよということだ。

この何%の変化というのが曲者で、絶対値はどうなっているのかということは、マスコミ報道ではわからない。輸入が少なくなって輸出が増えるとプラス成長に見えるというのが仕掛けである。海外の優秀な電子機器や機械などが輸入されず、自動車や一般的工作機械の外需に支えられている図式である。インバウンドもかなり大きなウェートを占める。日本国内が元気になったわけではない。それはそうだろう。多重課税のガソリン税収を上げるための補助金削減とかね、赤字国債の発行とか、延々と続けているわけだ。国内の景気が上向くわけがない。

何処にしわ寄せが来るかと言えば、いよいよ教育潰しであろう。文教予算の世界比率は、それらりの国と比較しても圧倒的に少ない。少なくても反対意見が聞こえてこないから、もっと減らしてしまえと、借金による10兆円ファンドとか作って、競争的に手を上げさせて企業と組んで、そこから自己財源を確保しろと言ってくる。くじけるわけにはいかないわけで、知恵と行動で進んでいかねばならぬ。そうなのだが、過去の付けに追われていても、そんなことは馬耳東風の皆様の声に踏みつぶされる。どうなっていくのか。正念場である。

明日からお盆休み期間です

五月のゴールデンウイーク以来の連休を頂く。まぁ、やらなければならないことがやたらとあって、連休中にどれだけ片付くかという事なのだが、何やらやってみたいこともあり、その辺りは自らに要応談である。精神を病みそうなというか、既に病んでいるのかと思わんばかりにあれやこれや発生するから、心労というものが凄まじく重なってくる。それを一枚でも剥がせればみっけものだろうという程度のことだ。

太平洋上に新たな台風が発生するらしく、それがお盆休み後半にやってこようとしているらしい。前半も台風、後半も台風ではご先祖様も胡瓜や茄子に暢気に乗ってくることもままなるまい。迷子にならないように頑張って頂きたいものだ。三途の川を渡っても頑張らないといけない世の中という事の厳しさよ。人の世の有り様が物凄い勢いで変化していく。それを先回りして手を打っていくわけだが、内手にも限界があるわけで、どこまでを身の丈と置くかが問題だ。

批判する者は気楽だろう。あれがこれが気に入らないと言うは易し。他と連携して大きく成れば何でもできるだろう?出来ませんって。小回りの美しさである。意思決定の速さが重要であって、大きさでは無いということは、10兆円ファンドの採択校を見ればわかったろうに。後世の借金で今を生き延びることは出来るかもしれない。それを良しとするか待てと言うかである。

先祖の御霊を敬い今の誓いを立てることがお盆であるから、それは実行せねばならぬ。しかし、お盆の時だけそうやっていれば良いというものではない。日頃からの行動が大切である。天から地から見られている。天網恢恢疎にして漏らさず。してやったりと思っても、いずれ報いがやってくる。教育は今に利益を得るためのものでは無い。実りを見ることが無いから必死にならないといけない。今を求める者がリーダーとなってはいけない。そう思う。

自然現象

いよいよ真夏とその昔は呼んでいた時期に入るわけですが、ニューノーマルな昨今、6月中にはその昔の8月レベルの日中が訪れているわけだ。地球の表面積はそんなに狭くは無いし、熱容量の大きな海洋もある。南極・北極には氷もあるわけだしね。これで何らかの理由によって南極周極流が停止すれば、一時は南極の冷温な海水が地球を巡り、温暖化速度は落ちるのであろうが、南極がその昔の緑の大地に変化していくのであれば、地球を冷やす方法が無くなってしまう。

偏西風が極端に北に寄っているから、台風を追い払う力が日本に働かず、太平洋高気圧のやる気だけが台風の進路を変える状況にある。自分で方向を決められない暴れん坊が、周囲の大きな声で的になったり見方になったりの、これまた現代社会、ニューノーマルの有り様にも見える。迷走台風というのは時々現れるわけだけど、V字ターンで沖縄地方の方々の混乱は余りにも悲惨な状況なのだが、地球のエネルギーの塊にどう抗っても人間には勝ち目はないわけだ。

海水温度の急激な上昇で台風は勢力を取り戻し、九州地方に上陸していく状況にある。数年前の大水害の記憶も新たな状態で、再び巨大な風雨の塊に襲われる。その間、日本の土木技術の英知を結集した環境整備が成されたはずであるので、その成果を拝見させて頂きたいものだ。人と自然との対決と言うことでは無いのだが、祈念な暑さだから、エアコンを適度に使って屋内で過ごせと言われるわけだが、それだけ、電気的エネルギーを活用しているわけだから、結局、大気の温度を更に上昇させることになっているわけだ。

今週から閉庁週間、我が国の先祖との対話強化週間の、所謂お盆である。灼熱のさ中にお仕事のことなどきれいさっぱり忘れて頂き、地球の近未来を考えるのも宜しかろう。地球のどこかでハリケーンや台風が猛威を振るっているわけだが、その製造に我々全員が関わっているのだ。自分は関係ないということは無い。地球の未来は組織の今の積分であり、組織の今は、個人の過去の積分である。結局、どんなふうに生きたかということが、巡り巡って自分に跳ね返る。閉庁中にはそんなことを考えてみたいものだと思っている。

無くてよいもの

心理科学学会から、会議は人の有効性と幸福を損なうという報告があった。仰る通りである。毎月決まった日程で会議をしないといけないと言うのは極めてナンセンス。会議をすることになっているからと、無理やり開催されるものが多いと感じるわけだが、本社が「法律で定めているから」というのを勝手に辞めたりすると組織そのものが消されてしまう恐れがあるから気を付けないといけないが、多くは、まぁ、無くても良いと思ったりもする。生産性と幸福の両方を奪う行為は無くすのが宜しい。

ただ、どんなに優れたリーダーであったとしても、個人の発想は限られているわけで、多くの観点から組織力を高めていく方が良いに決まっている。そんな事の為に会議は有るべきだ。会議というよりも討議によって「何らかの結論を必ず出す」として、そこに参加して意見を述べる仕組みになっていれば宜しい。何にもしゃべらないで、そこにだけ居るだけのような会議は欠席するのが宜しい。定足数云々言うのであれば委任状を出せば宜しい。

当たり前だが、議題等は事前に周知されなければならない。幸いにして、それはお約束事になってきていて会議の前に意見を言おうという心構えができる仕組みが増えてきていることは好ましい。そもそも論、組織は個々の能力や資質を活かすために作られているわけで、基本はトップのビジョンの下、サブリーダー達が部署の方向性を示し、その方向性を受けて、個々が最大限の能力を発揮すれば、組織力が発揮できるように出来ている筈だ。それが出来ないのであればそもそも組織として成立していないことになる。

印鑑は廃止と言っておきながら、頑なに「これを許可すると構成員が勝手なことをする」とか、「部下がちゃんと仕事をしないから、監督しなければならない」とか言う中間管理職殿がいらっしゃるが、これなどは会議よりも酷い。大人の組織は任せるのが宜しい。勿論、悩み相談は常に受け付けられなければならない。その悩みは全ての構成員に共有されなければならない。Q&Aというものと併せていけば、会議などかなり減っていくことは間違いない。決断はトップの仕事。意見は現場構成員の仕事。その分担が出来なくなったら、組織はもう無いに等しい。組織を活かすも殺すも構成員次第。それだけのことだ。

レトロ

執務室の窓枠に、今は動いていない古いエアコンが埋め込まれている。アルミ板をくりぬいてはめ込んで、室内・室外をストレートに繋ぐタイプで、その昔、団地などによく見られたタイプだ。何時から動いていないのか分からないが、はめ殺しという状態になっている。そのエアコンがなんとなく昭和レトロな雰囲気で、見た目、癒しになっている。育ってきた環境に近いものを見ていると、がきんちょの頃を想起させてくれる。それが過去を懐かしむレトロ感覚というものであろうか。

単に見た目だけではなくて、何と、雀のお宿になっているのだ。何か壁から音がするなと思って聞き耳を立てていると、エアコンからちゅんちゅんと声が聞こえる。今は酷暑でそんなところに入っていられないが、春先には必ずやって来て、連休明け位まで多くの家族が巣立って行く。執務室の庇の上を飛び跳ねて、飛ぶ稽古をしている様の、なんと愛らしい事か。かき乱された精神状態を平穏にしてくれる。

名工大の中において群を抜いて耐震性の無い建屋もいよいよ大改築である。筋交い手術だけでは雨漏りは収まらず、東南海地震で倒壊が先か、工事が先かという状態であったが、どうやら倒壊前に改修が成されるようだ。その為、このレトロな雀のお宿ともお別れである。寂しい気持ちが大きいが、これは止むを得まい。引っ越しの準備を整えて旅立つことにしよう。

旅立つと言っても当然だが、敷地内での移動である。その昔にはバッファーとなる建物があったのだが、それが無くなって以来、引っ越しは大騒動である。しかも近年では一気に改修ということを国が認めてくれず、半分ずつ分けてやると言うことで、半年後には工事の騒音の中で執務をさせて頂くことになる。雀さん達が居ない部屋はさぞかし殺風景であろう。しみじみと眺めるレトロな景色である。

時代は変わってますよ

時代はどんどん変わっているので、就職率100%と言っていた大学の卒業生が、地域産業の不況によっていきなり80%におっこちるかもしれない。バブルが崩壊した頃やリーマンショック後に実際に生じた出来事なのだから、あり得ないお話では無い。ちょっと宿舎のメインオーディオの調子が悪く、先日の日曜日にアンプラックをよっこらせと、それこそ肉体労働的に動かして、スピーカーケーブルをいじったりしてチェックをしてみたのだが、どうやらメインアンプとスピーカーの抵抗の関係で、ちょこっと無理をさせて来たかなと感じた。

このメインオーディオシステムなのだけれど、1967年のALTEC LANSING 605Bに1926年のWestern Electric Company 555-W型レシーバーをパラレルに接続しているスピーカーは、未だに全く衰えを知らず、現役バリバリである。一方で、マランツ製の電気アンプがどうも頼りなく、今回の調査でも、スピーカーシステムは全く問題は無いのだけれど、それをドライブするアンプがへたってきた、恐らくコンデンサ類なのだろうけれども、修復しようかどうしようかちょこっと迷ってはいる。地域産業の不況の様ではないか。

音の出口は問題は無いのだけれど、それをドライブするアンプが下手っている。大学という看板は元気なのだけれど、そこからのアウトカムズを受け取る産業界が下手ってしまっては元も子もない。勿論、その逆も同様である。要は共に元気で無ければならないということだ。片っぽだけが良ければと言う事では無いのだ。ただ、思うところはある。大学は今のままで良いのだろうかという疑問は常に持ち続けなければならないのは間違いない。

我が国は材料開発が極めて強かったわけだが、博士の数が10倍も居る中国と力業で対決しても、これはもう太刀打ちできない。しかし、タコつぼ的研究現場、そして企業の有り様を見ていると、それを脱したら、今までの狭視野から広視野に切り替わり、世界にとっての価値を目掛けて分野横断的な研究チームができやすいのではないか?勿論、企業はそれなりに十分な資金を大学に投じるべきだ。従来のようにタダ取りは宜しくない。勿論、大学も企業のアウトカムズにきちんと寄与せねばならぬ。時代は変わっている。実感している。

エビデンスギャップ

サラリーマン増税だと首相が言っていると、ウエブ上で観たのは10日くらい前だっただろうか?そんなこと言ったのかなと、無意識にメディアを眺めていると、今度はそんなことは言っていないと言われた側の言い訳が出てくる。言っていないならそうなのだろうけれども、どこかでそれらしいことを匂わせたのでは無いのかとも思ってしまう。研究に前のめりになり過ぎると、データを都合よく解釈して、自らの主張こそが正しいのだと思いがちなのだけれど、物事、一面からだけで判断できるものでは無い。

エビデンスギャップは医療業界用語だけれども、どんなところでも通用する単語だと思っている。若手重視の政策を打てば、例え、ベテラン向けの施策を打っていたとしても、若手だけ相手にしている政権と、ホムンクルスをぶち上げられる。大学全体を考えていれば、外野から、こっちを無視する輩は獅子身中の虫を放って食いつぶしてやれとなってくる。第三者は何が正しいか判断が出来ないから、SNS慣れした人々は、声が大きくて面白そうな方向に向かってしまう。

公に本社とやり取りしている文書のみエビデンスとなり得る。影の噂など知りようもなく知りたくも無いが、命懸けで頑張ってますよとしか言いようがない。皇帝爆弾と呼ばれる世界最大の水爆の実験の際には、地球を3回以上、その振動が回ったそうだ。幸いに実戦で今のところ使われてはいないが、真実とは遠いところにある思想を、証拠など無くても信じろと鉄槌を振り上げる者が世界には居るわけで、それが身の回りにもいらっしゃるから辛くなる。

会議が成され議事録があるなかで、その通りの執行をしても、好き勝手にやっていると騒ぎ立てる組織はどうなのだろう。スピード感が益々増してくる昨今、2年後の改定を考えてワーキングを立ち上げてなんて流暢な時代では無い。権力者は妄想を叶えようと躍起になってくる。それに立ち向かうには信念と真実しか無いのだ。その真実をネジ曲げて流布される様に呆れるばかり。反論はエビデンスのみだが、それすら観ようとしないのであれば、結末は見えている。

認知コスト

世界中が暑いのだから、暑い暑いと苦言を出しても無駄なことだ。認知コストを無駄遣いする愚痴はやめたほうが良い。朝の5時前後に宿舎を出ると、朝日が昇る前になってきているから、少しは暑さが和らいできている。どんな活動を選択するかで、暑いと思考する認知コストを下げることが出来る。脳の疲労が閾値を超えると、当然のことながら、生産的思考が出来なくなるわけだから、閾値に到達する前に集中して仕事をするのが良い。生理的には4時間が限界らしいから、本の数分でも脳の無駄遣いはよろしくない。

こんな知識こそ認知コストの無駄遣いかもしれないが、各人が成せることを最大限に発揮している組織にならないと、どんどんと新しくなる教育サービスなど実行できなくなる。人は今を手放さないから、新しいことを思考してしまうと、やることが増えてしまって宜しくない。新しいことをやるには、古きことを2つ捨てるというのが正しいとは思っているのだが、個人経営事業者では無いから、これがなかなかにして難しい。これを理解しないと次も理解できないからと言われると、そんなものかもしれないなと思うことがあるだろう。

しかし、街に出てみれば、パンケーキミックスとか、千切り野菜とか、もう、事前準備を整えてくれているサービスがあるわけだ。海外においては、事前学習はWeb上で「自分で予習してこい」という状態が20年も前から当たり前になっている。JABEEの講習会では当たり前なんだけど、日本ではどうも受け入れられない。一日の読書時間がゼロという学生が全国生協調べで2022年度データで46.4%で予習復習に当てている時間が平均で61分だ。この数字を見せられると「予習などさせられない」となるのかもしれない。

その要因が「アルバイト代が必要だから、その時間確保が重要だ」とか、何か、ちょっと違うのではないかと思うのだが、それが「古い頭」と言われてしまうと、何を学ばせたいのかという根本的思考を放棄しているのではないかと感じてしまう。教える側、学ぶ側早々の認知コストを有効活用する手法を生み出していかないと、限られた人員で社会が欲する人員を排出できないのではないか。学び癖がとても大切だと思っている。学ぶことが当たり前になると強い。自頭と言うことなんだろうけれど、それを求めるのは無理なのだろうか。虚しさを感じる。