連携から

集中して取り組めることというのは、まぁ、嫌いでは無く、自分としてはどうでも良いと思っていたりするのかもしれないが、他人から見ると、それをすることが好きなのだろうなということなのだろう。理系とか文系とか、そんな分け方で進路が決まってしまう現状だが、なんでその進路を選択したのかと中学校時代を振り返っても「そっちで良いや」くらいだったとしか思い出せない。当時から歴史や文学を学ぶことは極めて楽しい事と思っていたにも関わらずだ。

もう一歩、無理やり踏み込んで記憶をたどってみると、国語のY先生が嫌いだったとか、生物関係の単元を倣ったU先生が嫌いだったとか、どっちかと言うと、好きと言うよりも嫌いが先行し、そっち方面から離れて行った気がする。無責任な政治家が「答えの無い問題に果敢に挑むことが出来る地頭を持った学生を育てろ」なんて言い出しているわけだが、自分達があたかもそれが出来るかの如くの言いようなのだが、そんなことが出来れば苦労はしない。

所謂工科系と言ったって、分野の壁は高く、しかし、それを乗り越えて分野融合的テーマを構築しろと言う。これは正しい方向性だとは思うが、最初は分野連携というところだろう。文理融合などとも言われるが、これも文理連携からなのだとは思う。思うのだが、理系人と言われる人種においても、研究を文学的ストーリーで描く人も居れば、文人においてもシステム思考で攻めてくる方もいらっしゃる。要は理系も文系もそんなものは無いのだろうということだ。どちらかが嫌いだからもう一方に居るみたいな者では無かろうか。

デジタル人材云々のお話になると、文系だから解らないといきなり言う方が多いわけだが、言語をSVCだの文型分類をこなし、苦も無く難解な文章を読解できる力は、アナログのDX実践に他ならない。人間の脳内構造など、一部の天才を覘いては同じようなものなのだから、型式分類など意味を成すまい。これがダイバーシティの原理原則である。所詮、これから始まる入試の有り様が旧態依然出逢って、卒業生を活用していく企業の思考はさらに旧態依然ということだ。教育が全てである。次世代を意識して改革に挑まねばならぬ。

この国の有り様

給料を上げるだの異次元の少子化対策だの、国のトップがこぶしを振り上げる。少子化はこれ以上放置できない課題だと、なんだかこの数か月に発生したような口ぶりだが、政権与党として「初めて知りました」というような言いっぷりはどうなんだろうね。年頭所感って少しは気になっていて、今年はどっちのベクトルを考えて組織の方向性を定めていこうかなと思っているわけで、当然のことながら国のトップの一言は気になるわけですよ。賃金が伸びて子供が増える。成程ね。

18歳人口、即ち、受験生人口と言うことなんだけど、しょっちゅう、Webや新聞、TVでグラフが出ているし、これは信用したいなと思うのだが、お国のホームページに掲載される人口統計を見て判りきっていることなんだけど、「22年の出生数が80万人を割り込んだからピンチ」みたいなことをいう訳だけど、そんなもの、毎年の統計データを見ていれば明らかだし、今更言うことでは無いわな。給与問題などは、「売るものが無い国」で、どうやって企業に給与を上げさせろと言うのか?

働く意欲が先か、給与が先かと言われるが、自分達の手が掛かったものが世界で求められているという状況にあって、社会から尊敬されて、その上で給与が上がる構造が、当然の如く望ましい、一方で、「イスラエルのベンチャー企業の商材を取り扱うことが出来るようになったからコンサルは偉い!」とか言っているようでは、国家として衰退の一途にありながら、どうやって給与を上げるのか。そして、そんな国民を増やしたいと思うのか。

リスキリングによる能力向上とその技能が正当に評価されるようにしたいとか簡単に言うが、企業が大学と言う場を「ゼロ円コンサル」くらいに見下している現状から、そんな状況にどうやって持ち込むのだ。企業トップがバブル期の大学を卒業され、講演を依頼すれば「雀荘に入り浸って卒業して社長になった」と威張る始末。今の日本は正にその状況にある。企業のトップがバブルの申し子。ゲーム世代が現役生。最悪の年回りの輪廻である。どうやって歯を食いしばるのだ。厳しい。

仕事始め

三が日とは打って変わって曇天の4日、社会一般的に仕事始めとされている。されているので、仕方が無くというか、まぁ、始動しましょうということで、PCに向かっていろいろと考え出す。思い込みを無くして取り組む部分と、拘って進めなければならない部分とを明確に分けて事を整理していく。見えていることが真実とは限らないし、真実を思い込みで捻じ曲げてみているかもしれない。言えることは世界は常に動いているということだ。

情報の鮮度が大切で、まぁ、インターネット上の情報は基本的に信用しないわけだが、最近ではTVの映像でも脚色されている可能性も高いということで油断ならない。そこに居た人を消すなんてことは極めて容易に出来てしまう時代である。流石に駅伝競走の順位を誤魔化して報道するなどと言うことはあるまいが、信念をもって事に当たることしか出来ないと思っている。信念を何処から作り出すかが大問題である。

結局のところ自らの価値観を基軸に活動していくしかないわけだが、その価値観と言うことだって、単に、自らの人生が作り上げてきたものなのだから、絶対値なんか有り様が無い。人類の数だけあるわけで、価値観が異なる人同士の対話から、客観的に見た正しい方向に向かうしかない。その方向が、本社の価値観と異なっている場合が厄介だ。

その組織でなければならない行動をしていかねばならない。自動車部品企業が、食材の鮮度を保つための資材を上市していくなどは、その技術をどう活かすかということで、その組織にしか出来ないことを活かす様を新年から見せて頂いた。変化し続ける必要があるが、ならではの色を失ってはならない。邁進してまいります。よろしくお願いいたします。

子離れしない親

親離れしない子供は嫌いだが、子離れできない親はもっと嫌いだ。馴れ合って他の足を引っ張り、恫喝し、私見を押し付ける。封建社会の殿様のやり口である。こちらは封建社会人ではないから、まぁ、そこまで仰るならこちらの首を切り落として下さいと差し出すまでの事。私利私欲で動いてないからね。どうぞご勝手にと申し上げたい。

親離れしない子は、マーケットなどで見かけるし、小学校などでは、親と一緒でないと通学できないとか、そんな話はしょっちゅう聞く。幼少の頃に親の愛情が中途半端だとそのようになると専門家に聞いたことがある。まぁ、そうなのだろう。ところが、子離れできない親はどうしたものか。子の私物化と言う、この世で最も醜い姿ではないか。それでも人間か?驚かされる。

大人同士と思って議論を進め、一つの結論に到達したと思ったら、口角泡を飛ばし、恫喝しながら親が攻めてくる。ちょっと冷静におなりなさいな。こちらには聴き力があるのだから、理路整然と話をして頂ければ良い。良いのだが、そもそも、何であなたが出て来ちゃうのと、子の討論に親が喧嘩腰で攻めてくるみたいなもんだね。解決の糸口にもならない。

今年もいろいろあったのだけれど、余りにも強烈な出来事であったから、ちょっと戯言でも言おうかなと、そう思った次第である。どうも日本の国がおかしな方向に向かっている。対話が出来ない方が多くなってきたと感じる。上から怒鳴れば良くて、そんなのは気に入らないと駄々をこねれば良い。そんな風潮は嫌だな。万機公論に決すべしである。許しがたい。

DXの本質

デジタルトランスフォーメーション(DX)ってどんな世界なのかなと考えると、それは人間が作業をしない世界であろう。思考に特化して、その人にしか出来ない事を、その人の価値観で、他者に提供している状態と考える。決まりきったゴールに向かって何かを成している人はご退場と言う世界だ。IT技術が作業を駆逐してくれる。こんなに素晴らしい事はない。運転手殿が不足するから、凄まじい数の荷物の配送が滞ると先走った心配をするよりも、自動化してそうならないような世界構築の為には何が必要なのかを考えれば良い。

一度も着られずに捨てられるアパレル洋品が、製造された商材の90%にも及ぶ現状を考えると、作らなければ資源もエネルギーも輸送コストも要らないということになり、とんでもなく省エネになる。正月用品だってどれだけ廃棄されるのか?その分、作らなければ失われない命がどれだけ増えるのか。きっちりと消費する分だけ製造していく。しかもそれは自動であればよろしい。それをとことん追求するのが工学だ。

今ある状態が良いわけではない。自動化社会を実現するためには、人の生活様式が自動化にある程度寄り添わないと非効率と言うことが出てくる。ヨーロッパに旅をすれば、人の生活エリアとそうで無いエリアが明確に別れていて、自動化にはもってこいだと感じる。一方、我が国においては、いかなる山奥においても、突如、住まいが現れる。どうやって生活されているのだろうと悩むところだが、これなどは税金の高騰に拍車をかける一つの要因である。山川の保全に携わる人が必要だと必ず美辞麗句が並ぶが、里山を一人、二人で整備できるはずも無く、それは偽善の発言である。産業として関わらねばならぬ。

人的資本を高め、お互いが理解し合い、尊敬し合うところから国家を再構築せねばならぬ。そう思っているのだが、汚職政治家は威風堂々と居座り、清潔の頂点と思っていた皇室ですら悪しき噂にまみれた状態で嘆かわしい。国民の象徴とは、国民がこのように清々しく生きるべきだという見本で会って欲しかったのだが、どうやらそれも続きそうにない。如何なる年齢にあっても学び続け、何をさせて頂けるのかを真剣に考え続けねばならぬ。そんな時代である。

挑み続けること

京都女子駅伝を見た。力量は等しくとも、挑む気持ちが違ったなと。どちらがどうという事ではない。明日、競い合ってみたら逆の結果になるだろう。この瞬間に対する自らへの問いかけ。それこそが挑戦と言うことと思うのだ。何も足さない、そして引かない。純粋な自らの今を出す。それは負けた自分を想像した結果生まれる恐怖や、人々からのそしりという、日本人であると切り離せない因習との戦いでもある。それに挑み、勝ちに行った姿勢に感動した。今年、オリンピックからずっとスポーツが続いているが、一番の感銘を受けた。純粋な挑戦。美しい。

落ちこぼれても良いではないかと口では言っても、周囲の目線が気になったり、まだ見ぬ将来にみじめさを感じて、今にしがみついてしまう人の何と多いことか。自分が思った評価をされなかった。結局のところ、どれだけ自らの信念というか、自らの価値観を貫けたかということなのだと思う。吉田松陰師が命を懸けて未来を創る人を育て、そして、その信念を暴力が踏みにじり、そこで育った者が、後の暗殺など様々な暴力に加担したわけだが、それは師の願ったことか?

2022年において考えれば、残り一週間となってしまった。来る日曜日には次の年の始まりだ。ただ、日本古来の神の暦からすれば、節分まで今年であって、約一か月ある。反省する機会を二度頂けて、日本人はなんだか都合が良いなと思ったりもする。自らにとって本当に全力で毎日を過ごした年であったのかと、反省し、残りの日々、ひたすら挑戦し続けねばならぬ。

組織変革を拒む若年層に足を捕られて、そういうことかと思ったりする。護ることは自らにとって容易である。挑戦は恐怖である。その恐怖に打ち勝つには、自らの理想が自ら生み出されたものでなければならぬ。人から学んだきれいごとでは、暴力的な今を護る言葉に打ち勝てない。異なる明日の中に居る自らを考えると、それは恐れおののくのは仕方が無いかもしれぬ。その時、常に思わねばならぬ。自らの明日は、自らの心がゼロから数字を産むのだという信念から創り上げねばならぬ。創造とはそういうものだ。後数日、考えてみては如何か。他人のせいにしている自分が居ないか。それは後悔と冥土への一里塚だ。

アナログプロセスマイニング

膨大なデータから隠された真実を解き明かす。データマイニングと呼ばれる手法で、もう、枯れ切っているのかどうかわからないけれど、小生もテキストマイニングで、自らの講演を文字起こしして、テキストマイニングによって、主張していたかった事をきちんと話せたのかを検証するのに活用させて頂いている。これが実に面白い。ただ、これはあくまでも自己満足であって、聴講者がそれを理解し、活用できるようになったかどうかは別次元。

最近、アナログプロセスマイニング手法を伝えるべく社会人向けの講座を行っているのだが、受講側が「ツールの活用」を目的化してしまって、本質である自社のプロセスの可視化がお留守になってしまうことに辟易している。「儲からない商材」を黒船を使って売れるきっかけを作りたいということなんでしょうけれど、それは会社の経営層の手腕が成すべきでしょ。そんな金を貰っていないし、その商材がどんな価値を生み出しているのかもわからんのに、無茶を言うなと言いたい。

プロセスマイニングって必要で、様々な仕事をしている時、立ち止まって「何故これをやっているのか?」「どのように実行しようとしているのか」の2種類だけでも考察してみると面白い。余裕があれば「誰の為に」とか、5W1Hを価値ベースで明らかにしようということなんだけどね。すると、自らがどのように実行しようとしているのかには、自らのスキルを構成する要素があって、それにどれくらいの時間と資金を投入したのか、即ち、スキル構成コストが見える。すると何故これをやっているのかの先にはそれ以上の粗利が無いと赤字プロセスを走らせていることになる。

自社で達成できない要素は購入するとなるわけだが、プロセスを経てい行って最終的な粗利に対して、外から導入したものが余りにも高価な対象であるときは要注意だ。いきなり無くなるかもしれない。そうなるとその事業そのものが無くなる。プロセスステップ間のコストの微分値を考えれば、どんな隙間ビジネス・隙間構造も価格化出来る。そんな目線で今実行している行為が組織にとってどれ程にプラスになっているのか、マイナスになっているのかを評価せねばならぬ。微分値は小さいけれど、それを積分するととんでもなくなる。そんな意識で今日も過ごしたい。

金利

「日銀は金利を上げろ!」という声が上がっていたと思ったら「金利が上がったら景気向上意欲に水を掛ける」と直ぐに切り返す。こんな国では、じっくりイノベーションに取り組むとか無理だなと感じてしまう。大企業から中央研究所が無くなったバブル期で全てがふっとんでしまったのだろうなと振り返る。法整備も後手後手で、何かを挑戦しようとすると直ぐに待ったがかかる。「そんな法律があるのですか!」と驚くことが沢山。自動車一本足打法だって、結局、国は、自動車に関係する税金が欲しいだけだからね。

実際にテック系企業を起業してみると、機器や消耗品を購入することが極めて負担になることが解る。自動車の部品を作れるような工作機械を購入しようと考えると、それはそれは大きなお金が掛かるし、床面積も取る。消費電力も大きい。それを維持管理することも大変だ。それにはお金が必要になる。作ったもので粗利を獲得できれば良いのだが、中小企業の粗利を大企業が吸い上げるからにっちもさっちもいかない。

新幹線が突然停まって、動き出すまでに4時間以上掛った顛末を新聞紙上で拝見したが、部材の「折れ」が原因であったという。ローテクのハイテクで、基幹部品が価値を支えているわけだ。その価値には時間通りに運行されるということが、顧客側にはあるわけで、だから高速鉄道料金を支払うわけだ。それを支える基幹部品が機械疲労で破断するという、なんともお粗末な顛末だなと情けなくなった。こんなことを書くと時速300km近い鉄道が分のオーダーで立て続けに振動を加え、それが延々と続くから仕方がないと作り手は言うでしょう。でもその中でも壊れないものが出来ない国と言う事だ。

無理な軽量化やものづくり時の省エネ化、短納期の圧力が大き過ぎるのではなかなろうか。きちんとしたものを作る。それが安全を産むのは当然だが、安心の付加価値も必要なのだ。金利の上昇で景気向上意欲が下がる程度の国のものなど買いたくないというのが本音だ。国民が減って行って無くなる国になって欲しくない。世界から求められる国であって欲しい。その根幹に、教育とものづくりがあって欲しい。旅行のインバウンドだけの国を目指していそうで恐ろしい。

定量的思考たれ

予算をどのように活用していくか。使ったことによって組織が強くなって、所謂「粗利」を稼げたらベストなのだが、組織のミッションを完璧にこなせたら、それはそれで良しとするべきだろう。しかしながら、きちんと現状を定量的に分析して、その定量値からどんな項目をどんな風に変化させると、こうなることが期待できるからと、どれだけ予算をつぎ込むかも検討できる。取捨選択の根拠も定量的でなければならぬ。Whyに対して定量的に応えねばならぬ。勿論、理不尽な者に返答する必要は無い。

この定量的な議論と言うことに日本人は慣れていない。感性で熱く語って頂けるのは良いのだが「で、なんで?」と聞き返さざるを得ない場面がかなり多い。「こうした方が良いと思うのですが?」とかね。だったらやれば良いだけでしょ。お金は出さないけどねと、そんな無駄なことに時間を掛けたくも無い。社会で流行っているリスキリングという単語だって、日本がこれだけ置いてきぼりをくっているからみんなちゃんと学び直しや新たなスキル獲得に挑戦しなさいくらいに首相が言わないと、結局、誰も本気にならない。

リスキリング講座を主宰してみて感じるのだけれど、あれも教えろ、これも教えろと、自ら考えようとしない。そんな輩にはリスキルなんて無理で、リカレントも無理だろうと実感している。自分の言葉で語れない人には学びも無理だなと感じ始めている。その要因は何処にあるのか?勝手な想像だけれども、幼少の頃から何でも与えられて、問題が与えられればそれを解くスキルはあるけれど、自ら問題を設定して楽しむことが出来ない。パターンを覚えてクリアし続ける人生。何が楽しいのか?

こうしたい、ああしたいということは有るのだけれど、先立つものが必要で、都合よくお足は降ってこないから、自ら稼ぐことになる。稼ぐにしても、自らの能力を高め続けて、それが出来なくなったらそこに存在してはいけないのだろう。やらなければならないことが沢山あり過ぎて、それは本当に目が回るのだが、一つ一つ丁寧に分析して、何故なのだろうを問い続けねばならぬ。それが人間なのだろうと思うのだが、充たされた種族と生きている空間が違うなと感じている。これが時代と言う事なのか?定かでない。

幸せ観

日本人の幸せ感を調査したそうで、まぁ、なるほどなと思った次第。「他の人の役に立てているから幸せ」という趣旨の回答が最も多かったとの事。人対人の関係が丸く収まっていると、幸せを感じるらしい。孤立無援になっていると、それは不幸という判断になって、最悪の場合に至ることも考えられるとのこと。40歳以上の回答らしいから、全世代に回答を求めると異なるのかもしれませんが、解るような解らないような。

山に籠って深山幽谷、朝露に濡れたギンリョウソウや、渓谷のざわめき、鳥のさえずり、夕刻に輝きだす星の瞬きに幸せを感じ、孤独であることの有難さを感じるのは、どうも主流では無いらしい。昨日に、今年初めて通勤途上において、自動車販売会社の屋外駐車場に停められた乗用車の窓ガラスが真っ白に凍り付き、吹く風が頬を射抜く感覚に、冬という季節は必ずやってくるものだなと、灼熱の夏からの差異を実感し、梅のつぼみが白く顔を出していることの、なんと健気な事と感じ入っているようでは、一般的な反応では無いようだ。

ビジネスにおいては、買って頂かないといけないわけだから、購入者が、如何に現状との差異を大きくして頂けるのかという点に傾注するわけで、言ってみれば他人の幸せこそ、自らの幸せと結び付けられるのは至極当然なのだが、自らが関わった誰かが幸せになっていないといけないということを根本的に求められてしまうと、自ららしさというか、何故、自分は生きているのかという根本的なところを否定されているのかと思ってしまう。

そりゃぁ、組織の発展を願って起案しますよ、それは当然の事。お役目として必然であり、それが結果的に今までより良くなったと言って頂けたら嬉しいに決まっている。しかし、組織的対応というものは、変わらないほうが良かったと思う人も必ず居て、全ての人に喜んで頂かないと起案出来ないという判断力では組織は立ち行かなくなる。嫌われ疎まれることは覚悟の上の決断であって、それは組織人なら当たり前。他の人の役に立てていなければ不幸と思い詰めてしまうと、生きようが無いと思ってしまう。自らの信念において、自らは幸せと思って何が悪いと開き直りたくなった私であります。