反発しても良いかも

20歳人口が半減しても、大学の定員が変わらないのであれば、そこに集う人的な何かの分布は変化すると考えるのが普通である。人口だけではなくて、その時のテクノロジーによって育った者が親になり、その親が子を育てるわけで、親が小学校を卒業するまでに影響を受けたテクノロジーが、その後の深層心理に働きかけていくとすると、目の前の学生諸君の有り様は、今から30年程度前のテクノロジーの影響を受けていると考えて良いのかもしれない。

その影響の受け方だが、デジタルネイティブだから、デジタルを完全に受け入れて、その申し子になっているだろうという考え方と、がきんちょは「親に反発する生命体」だから、その有り様に真っ向から反対して、ウルトラアナログ人間になっているかもしれない。ビジネス的にAIを使いこなす数理モデルに長けた学生を育てる学科・学部の創設を、親方は推奨するわけだが、AIの進化でその人達の職が無くなるようなレミング現象を発生させることに躍起になって良いのか?

ギフテッドをもてはやし、その才能に関係することだけを好みに応じて推奨して学ばせても、結局は苦行に耐える力は身に着かず、そして異分野の広い知識も身に着かないから、天才は育たないという記事を読ませて頂いて、なる程と思った次第。抑圧への反発は極めて自然な流れであって、それも認められるべきであろうと感じるわけだ。ちなみに今から30年前の重大ニュースなるものを調べてみると、円高で一ドル100円を突破したというニュースが目に入った。海外旅行などに行きやすくなった時代である。

今の学生君達が、金銭的には豪遊は出来なくとも、隣国に焼き肉を食べに行くなどと聴くわけだが、なる程と思ったりする。親が海外旅行をしていれば、海外旅行のハードルは下がるだろう。留学にチャレンジする学生も増えてくるわけだと納得する。海外旅行などは無理して毛嫌いする必要は無いから、親の時代の影響を受けるものだろう。米国ではAIに対する反発が出始めているとも聞く。これなどはスマホばっかり見ている親への反発なのかもしれない。反発が活字に没頭するような方向に向かってくれたら嬉しいのだが。居室の本を運び出そうと思うのだが、はてさて、貧居が崩壊しないかと恐れるばかりである。

震災考

東北震災の時もそうだったのだが、マスコミの熱しやすく冷めやすい報道に辟易する。どのチャンネルを拝見しても同じ悲劇が繰り返し映し出され、国難にどのように協力することが出来るのか等は、キー局を通じて寄付をしろという一点張り。特にお正月の災害においては、道路や電気・ガス・水道の寸断という、税金をかなりの額を投入しているものが木っ端みじんになったわけで、これで東北震災の時の様に増税しないとか、公務員の給料から天引きするとか、選挙対策なのだろうが、そんな話が出てこないことに違和感を覚える。

巨大地震にどのように備えるのかという、地球の怒りに人間ごときが贖える筈は無いのだが、道路わきの山の斜面が崩落し、隧道の上に巨石が落ちてそれを貫く。どのように改修していくのか定かでは無いが、東北、熊本の災害で、無人重機による災害復興技術が相当に進んだと思うのだが、それらが投入されている気配はなく、極めて旧式のホバークラフトを延命させながら自衛隊が活用して、重機を海路で運んだというニュースは拝見したが、それまでである。

マスコミも含めた有象無象の輩が道路の渋滞を加速させ、本来、長特急で現場に届いて欲しい物資などが全く届かない現状を引き起こしている。これも毎度の事で呆れかえる。能登半島は2度ほどぐるっと一周させて頂いているのだが、珠洲の先端あたりは道も少なく、切通しのうようなところばかりで、陸路で向かうのは不可能であろう。また、断崖絶壁が続くエリアだけに、海路での接近もままならないであろう。しかし、そのような場所は日本中、いたるところにある。人が居住するエリアを自由に定められる現状においてはなんともし難いところか。

政治家諸氏はパーティーでの金集めに必死である。当選の為に金、再選の為に金。それに群がる支援者もどきも悪質である。日本列島改造論をぶち上げて、今の日本の土台を作った角栄氏の旧居が焼けてしまった。人が平穏に暮らせる国家改造にこそ集中して税金を投入してはどうか。勿論、それを成し遂げる学術・技術にも投資して頂かねばならない。単に、大学はくっついて数を減らせと言うことではなく、強みを活かし伸ばす。その方向にいつになったら税金が投入されるのだろう。今も未来も共に大切である。

やっぱり人

政治が時代を変えるというか、結局は人が政治を行うわけだから、人が時代と言うか、文化の在り様を変えるわけだ。一方で、歴史の厚みというか、集団の意志というか、その強さも感じる場もある。先日、鶴舞大学の同窓会に参加をさせて頂いたのだが、同窓の力と言うか、歴史と言うか、その熱を直に感じる機会を頂けた。歴史上の人物と言っては失礼に当たるが、ずっとずっとその昔からご尊顔を拝してきた方々が密度高くその場にいらっしゃる光景は、三十三間堂の仏の列を拝するようであった。

文化の在り様云々を語ったのは、同窓会のお話をしたかったわけでは無くて、がきんちょの頃にテレビで拝見した即身仏をリアルに拝して、その歴史を紐解かせて頂いたら、人の愚かさと言うか、命を粗末にするのはやはり人なのだなと実感したから。神・仏が絡んでくると、まぁ、信仰とお布施のお話が出てきて、そこに政治のお話も絡んでくるともう大変。天皇の神格化の為というか、幕藩体制崩壊の為というか、廃仏毀釈だったり、いわゆる講の廃止だったりと、明治の一桁年代ではいろんなことがこの国に起こったわけだ。

それまでの信仰を否定するだけではなく、生きたまま仏になられた方を侮辱したり見世物にしたり。新聞記事にまでして愚か者呼ばわりしたりと、まぁ、歴史を紐解くと情けないお話がごろごろと出てくる。まるでどっかの学長選のようなだと苦笑いである。愚者はどこまでも愚者であり、愚かな歴史は繰り返されるのだなと呆れたところで、文化の在り様云々を語ろうと思った次第である。まぁ、明治の時代だけではなく、信長さんもいろんな寺院を焼き払ったり崩壊させたりとしたわけだが、明治維新とは方向性が違うので、それは語らない。

歳を重ねたから感じるものがあるわけだが、同窓会という集団の力、そして方向性はこれからどうなっていくのだろうとも思った。若者が殆ど出席していない状況で、それは同窓会の意味を成しているのか?先輩後輩が繋がってこその同窓会と思うのだが、会場の雰囲気をネット配信しているわけでもなく、同窓会費を支払ったものの、それは何処にどのように使われていくのか、自分達が同窓であるという意味はどこにあるのか?人の想いの強さが同窓であることの意味であろうと、いろいろ考える松の内であった。

今日で勤務現場への出所はおしまい。明日からは暫く在宅勤務をさせて頂く。7階に居室があるのだが、エレベータの保守点検が来春まで行われるということで、昨日から登山状態になっていることも、ちょっと面倒だなと感じる次第。それくらいの体力が無い者は務まらないよという職場からのエールかもしれないが、修論・卒論に追われる学生君達は体力増強の機会と捉えて頂くしかあるまい。足の活動は脳への血流を促す効果があるから、思わぬ良い成果の獲得に繋がるかもしれない。何事も前向きに捉えるのがよろしい。

常に全力でということなのだけれど、そろそろ体中にガタが来て、にっちもさっちもいかない状況ではあるのだが、そんな泣き言が許される職制では無く、思考を巡らし続けなければならない。各大学における差別化というのは大賛成で、道州制では無いけれど、やや広域において、専門色を高めていくこと、そしてその色をエリアの企業や子供達と共有していくことが、この国が世界から必要とされる為に必要なことと考えている。病床の多い病院も良いが、絶対に病が治る病床も良い。工学とは世界の人の笑顔の為にあるのだから。

2027年に開業と言っていたリニアだが、どうも品川に45分で行くストーリーは当分おあずけのようだ。ドメスティックな話題で恐縮だが、小生的には現役時代にリニアで出張に行けるかななどと面白がっていたのだが、思わぬところでとん挫した。しかし、このとん挫の理由はとても重要で、議論・討論の徹底という、当たり前の重要さを改めて感じたことは有難い出来事であった。将来的にどうなっていくのか解らないが、地球温暖化の加速で、トンネルを掘っても掘らなくても、地下水が枯渇するということはあり得るかもしれない。琵琶湖を見ていてそう思う。

リスキリングが大切ですよと、考える手法を講座として提供し始めたわけだが、多くのお企業様からは「高価すぎる」と言われてしまう。値引きはしない。しっかりと高評価を頂けているからだ。アウトカムズ思考の無い皆様にとっては、人の思考能力を高める事よりも、ロボットを導入してコストをカットすることにお熱が高まるのであろう。どこまで行ってもコストはゼロにはならないけどね。新奇を生み、そこに挑戦していくのは、当面は人なんだけどね。その意識で新年も活動していく。そんなところだ。

次に向かいましょう

今年も残りわずかと言うか、戯言的には勝手にやっているので、語る、語らないを求められることはなにもないのだが、年内、いつまでやってんですかと言われると、明日までですねと答えますな。驚いたことに、社会的には小学生は、この地域においても冬休みに入っていて、がきんちょどもは自転車に乗って縦横無尽に街中を走り回っている。元気なものだ。とは言え、目に入るがきんちょは数名であって、多くはこたつに入ってゲームでもやっているのだろう。そこになんのイノベーションもない。

以前、破壊的イノベーションを語ったことはあるのだが、そもそも論、破壊される前に、存在理由がなくなっている商材があって、過去の遺物が継続してしまっているので、注文が発生し、それを作り続けているという、正に破壊されていることに気が付かない日本と言って良いだろうか。それ故に一人当たりGDPが30位以下になるわけだが、こう言うと、いやいや、本当はもっと下がっているのだが、気合を入れている業種があるから、まだ、そのレベルだと、世界的企業に怒られるだろう。その通りである。

素材などで破壊されずにいらっしゃるお企業も、AIのマテリアルインフォマティクス、プロセスインフォマティクスの台頭で、今よりももっと優れた商材があっという間に社会を席巻し、破壊される側に回ることに油断してはならない。戯言などは永遠に戯言なのだが、これとて、バカAIなんというものが出来たら、もっとまともな駄文をしたためるであろう。それはあまりにも底辺なので、ほったらかすとして、破壊的イノベーションが誰に牙を向けてくるのか、油断ならない。

身内で話をしていたのだが、誰が何を破壊するのかと言うお話だが、夢を抱いた人間の、その思考そのものを破壊することによって、まったく新しい、そう、思いもよらなかった圧倒的な世界観に向かって動き出す、人間の思考そのものを破壊してこそ、破壊的イノベーションというところに至った。今、売られている加工機を使って商材を作っている企業などは、既に破壊されているわけだが、フォアキャスティングで描いた夢こそ破壊されるべきだ。破壊は破壊を呼び、真の新しさを目指し始める。バカな縄張り争いに付き合っている暇は無いのだ。

残念

べたなネタになってしまってつまらないのですが、品質不正の件は本当にいただけないなと感じるのですよ。一人当たりGDPが急降下を続ける中、工学に携わる者として、そして教育に携わらせて頂く者として、なんということかと。この手の類が留まることを知らずに延々と湧き出てくる。政治家諸氏の金銭感覚の無さ、マスコミの政治家諸氏へのおべんちゃら、そして公安だってトカゲの尻尾を必死に探す体たらくなどは「またか」という、まぁ、そんなもんだろうという感覚で捉えるが、技術の不正は頂けない。

「〇はあります!」と再現性を確認せずに公表して残念なことになった事例は、まぁ、理研のとりまきが悪かったのだろうとは感じるのだが、研究を実施しているご当人が再確認をしなかったという点においてはまずかったよね。あんな時にはマスコミは大喜びで断頭台に人を押し上げてしまうのだが、角栄さんの後、同様のさらし首を見たことが無い。マスコミなんて無くなったら良かろうと思ってしまうが、ダイハツさんの品質不正を、今後どんな風に論じていかれるのだろうか、ちょっと注目したい。注目したからと言って、どうということも無いのだが。

もう、何年前になるだろうか、恐らく8年位前だったと想像するのだが、Dアメリカ社を尋ねさせて頂いた時に、衝突試験実験場を拝見した。一体一千万円超えの試験用マネキン(マネキンとは仰っていなかったが、正式名称を忘れてしまったので)達がずらっといらっしゃって、衝突試験における費用の掛け方に「人の命の為に当然の事」と仰っていたことを思い出し、この度の某社殿のなんというか、命の軽視に日本企業の有り様を感じて天を仰ぐ。

天網恢恢疎にして漏らさず。ものの見事に洩らさなかったわけだが、昨日現在までで174件(新聞情報の転載)の不正箇所が見出されたという事なのだが、今後、増えて行ったりしないこと願うばかりだ。現場はプレッシャーを経営幹部から受けたということだが、わが身を振り返り、気を付けねばと思うばかりだ。思い違いだったということと、組織ぐるみの隠ぺいということは大いに違う。ものづくりに携わる地球人類全てに関わる問題である。市井の人々の命を軽視してはならない。お金を命より優先してはならない。それだけのことなのだが。何時まで繰り返されるのか。悔しいばかりだ。

Why?があること

何か新しい事をやってみようと思った時に、誰かがこれをやっているからとかとか、ネットで見たネタを組み合わせると出来そうだからとか、そんなアプローチを取りがちだ。また、リーダーにしても売れなかったらどうしようとか、そんなもの、出来る筈はないだとか、そんなことで手をこまねいている間に海の外の人達が、新しい事業を進めてしまって、降り出しに戻っていく。マイナス金利の目指すところが、企業が給料を上げ続ける状態になったらそれを止めて、先ずはゼロ金利からということなんだけど、なんだかなぁ。

その昔、ひょっとすると今もあるのかな?、某学会において、Si基礎物性評価というセッションがあって、40年前から重箱の隅をつっついて、漆をはぎ取って、材木の中を見て喜ぶみたいな人達が集まっていた。批判するわけでは無くて、そこでの新しい研究アプローチが半導体デバイスを作り続けた企業の知恵になっていたのは間違いないのだ。ちゃんと世界的な論文に掲載されて、企業の活力にもなっていた。ただ、学者サイドは企業の活力なんてどうでも良くて、兎に角、ニッチを目指したわけだ。

要するに、社会では潜在的であり、そして未知であることに挑戦するわけで、「無い」ことに挑戦していたことに驚くわけだ。ただし、そこには不文律があって、何故それをやるのか?という「Why?」の問い掛けは必ず答えるということはあった。大いなる失敗もしでかしたが、その場において猛烈に鍛えて頂いたことは忘れない。例え、社会において顕在化している問題であっても、そこへの取り組みが成されておらず、未知の領域であったならば挑戦しても良い。そこには意味的な価値が生まれるから。

いろんなお企業様からのお問い合わせで「こんなジグソーパズルのピースは落ちていませんか?」という問い掛けがくる。開発に行き詰まったか、最初から技術を買ってしまえと言うことなのだかは定かでは無いが、社会で顕在化していて既知の課題にお金を投じても、そこには価格競争しかない。学者がそこに手を出すと、ハゲタカジャーナルに投稿するしか無くなるわけだ。研究成果のエクセルギーがゼロなんて研究を何故やるのか。マスプロダクション終焉の2023年だが、2024年はどうなるのか。新しいアプローチは何時始めても良い。今始めようではないか。

エクセルギー

以前、大気中エクセルギーの獲得ということでファンド提案をしたことがあるのだけれど、どうも審査員に全く通じなかった表現だったのではないかと、エクセルギーという単語に思う。熱力学の講義担当であったので、物質がもつ総エネルギー量であるエンタルピーに対して、実際に活用できるエネルギー量としてエクセルギーという概念が生まれるわけだが、エンタルピーが大きい物質があったとしてもエクセルギーが小さいと、活用しようとすると公害に直結するようなものが出てくるわけだ。エンタルピーに対するエクセルギー量の割合をエクセルギー率というのだけれど、それが大きければ大きい程、使い勝手が良いエネルギー源というわけだ。

天然ガスは結構優秀で、エクセルギー率は92%もある。それ故に天然ガスを発電に使ったりするわけだ。一方で、水素は燃やしてしまうと83%であって、仕事に活用するには天然ガスより余計なものを出してくるということだ。一方で電気という代物はなんと100%のエクセルギー率を持っている。だからその場で作ってその場で使うととても良いエネルギー源ということだ。ただ、遠くから輸送するというプロセスにおいては抵抗体を通って熱に変化していくわけだから、これは勿体ない事をしている事になる。

特に、大量電力発生に用いられる蒸気タービンを考えると、ボイラーにおける蒸気発生に使われないロス分は20%程度が排熱され、その残りの80%分が蒸気がタービンを回すのだけど、電力になる分は80の内の32だけであって、残りは排熱となっていく。コンバイン発電はその熱も上手に取り込んでいくという考え方だけど、燃料電池で水素が持つエクセルギーを100とすると、電力に変換できる量は72もある。排熱は28となって、分散電源としての水素と燃料電池の組み合わせの良さが生きてくる。

しかし、肝心の水素をじゃぶじゃぶ生み出すことがなかなか出来ないわけだ。ASEAN諸国の皆様からみて日本は単なるパートナーの一つというように見られるのも、エネルギーも食料も無い国だからだ。もう一つ言えば借金も凄いぞ。誰も覚悟しない、決断しない国。日本のエクセルギーってどんだけ低いのだろうと思ってしまう。オープンイノベーションのパートナーに選ばれない国の代表選手になりつつある。細かく見ると、中小企業や大学のエクセルギーが小さいということだろう。変化しなければ!

破壊してこそ

コダックとフジフィルムがフィルム戦争を繰り広げている間に、カシオQV10が颯爽と登場し、それ以降、デジカメの進化は止まらない。アンセルアダムスのゾーンシステムの考え方から、兎に角、シャッターを切りまくって、2000枚の中から1枚、お気に入りの撮影結果が残れば良いやという、撮影スタイルまで替えてきた。シャッターどころか、高速メモリの重厚長大化で、ビデオ撮影の一駒を切り取って、静止画として鑑賞に耐える記録方式にまで到達した。人の行動まで変革する破壊的イノベーションである。

日本の自動車業界も見えないところでEVシフトを進めてきた部分もあるが、日本の政策面が全く追いつかず、急速充電機の設備が出来ず、口ではSDGsと言いながら、CO2対策への本気度はどうなのだろうと疑ってしまう。まぁ、大震災で原発がひっくり返ったのは事実で、電力不足を火力で補っていないところはまだましか?しかしながら、電力網の脆弱さはいかんともしがたく、もしも、急速充電が可能な全固体電池が実用化されて、夜間に家庭充電が可能になると、送電網がふっとぶかもしれない。それこそ全固体電池による破壊的イノベーションである。

リアルな破壊は頂けない。そうであれば、在宅勤務環境などの徹底した整備が必要であろう。それに伴う開発も必要だ。PCのディスプレーでは無く、壁そのものが「あっち」の空間との境界になるような、リアルな人同士の触れ合い空間を作ってしまうのが良かろう。破壊的イノベーションはいたるところにある。ディスプレーなど地震の時に吹っ飛んでくる凶器のようなものだしね。トレインシミュレーターの様に、左右・全面がいざとなったら会社環境そのまま投影されるような仕組みがあれば良かろう。

EVとなることで、車両重量が増し、サスペンションがごつくなるだけでは無く、タイヤと道路の摩擦の増大で、マイクロ・ナノダストの排出量が増している。タイヤの素材など、呼吸器系疾患の原因になるし、EVによって新たな病の発生に繋がるかもしれない。移動することで莫大なエネルギーを必要とするならば、それを無くす研究もあって良いではないか。化石燃料で作られた社会をトレースせずに、もっともっと破壊的イノベーションを進めなければならない。そう思う。

変化し続けること

師走に入ってからの最初の寒気で、やっと冬を感じるなというか、やっぱり冬はやってくるのだと、なんだか昨年と同じ感覚をやっとこさ持つことが出来た。日中の風の強さも寒さゆえに感じるようになり、まぁ、それでも凍てつく状態という事もなく、冬がやってきたなと言うところだ。夏からいきなり冬になったと思ったのだが、やはりその間にはなだらかなというか、それなりの気温帯の日数があるのだなと、四季はやっぱりあるのだなと思ったところだ。

そうかと思うと、太平洋上において台風が発生したりで、12月中旬と言うのに海の温度は上がったままなのだなと感心するばかりだ。何十年もかけて海洋の温度を上げてきたのだから、熱容量の大きな水を温めたのだからそう簡単には温度は下がらない。温度が変われば密度が変わり、それが変われば海流の流れも変化していくのも当然だ。日本近海の魚の生息域が北上していって、富山では不漁のブリなどは北海道で豊漁だという。季節ものの魚が居なくなって、富山のお正月の準備は大変なことであろう。

百年企業の魚介類せんべい屋さんが「海水温の1℃の変化で起こる生き物への影響は、地上の生き物への5℃の変化と等しいのだ」と、経験から語って頂けたのだが、もっと大きいのではないかと思う。海藻が茂ったエリアに、南国の魚が上がってきて、その海藻を食べ尽くした結果、生態系がガラッと変わる。海水温による変化が、海中生物の勢力図をがらっと換えてしまうということだろう。何億年のスパンで見たら、そんなことはしょっちゅう起こっていたのだろうけど、寿命の短い人間にとっては大騒ぎになるわけだ。

魚を生業としていらっしゃる皆様にとっては、地域ブランドが無くなっては大騒動だ。ガソリンを使えなくなった自動車と同様かもしれない。農業においても、夏の暑さが厳しくて生育に異常をきたし、米などは一等米が少なくなって悲鳴を上げている。みな、平等だ。研究者も開発を少し意識すると、社会との連携の在り様もがらっと変わる。社会の変化の勢いは気候変動よりも大きい。自らを変えることが出来ることを幸いと思うべきである。変化していくこと。それだけである。